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小説「姉ちゃんと僕と、僕らのじいちゃん」第10話

【前話までのあらすじ】姉ちゃんを喪った僕は、姉ちゃんが生きていた過去をいったりきたりしながら、姉ちゃんの短かった人生と僕の未来をぼんやりと思う。登場人物は四人だけ。
ゆうや・・・僕
あやこ・・・僕の姉ちゃん
じいちゃん・・・僕のじいちゃん
ユカ・・・僕の彼女



 遠くの山が新緑で眩しくなるころ、学校を終えていつものように僕は姉ちゃんに会いに行った。中間試験中だったから、いつもよりずっと早く病室に着いた。相変わらず薬臭のする階段を駆け上がり、僕は姉ちゃんのいる病室を目指した。ノックせずに僕は姉ちゃんの部屋のドアを開けた。

「あ、待って!」

 中には女の看護師が三人いて、慌てた様子で僕に言った。

「いま処置中ですから、外でお待ちください」

 処置中?

 彼女たちは時々姉ちゃんの寝間着を着替えさせ、人工肛門を新しいものと交換した。僕には見えた。一瞬だったけれど、看護師たちが僕に向かって何か言った時の視界の端に、姉ちゃんの姿が。

 姉ちゃんは裸の姿で天井を見つめていた。茫然と天井を見つめていた。

 濃い黄色の皮膚に包まれた、姉ちゃんの体はぺったんこにプレスされたようだった。姉ちゃんの胸には脂肪がなく、どこにもなく、腹を割いた証拠の痕があり、人工肛門の袋があった。

 僕は扉の外に押し出され、そこに座り込んだ。姉ちゃんが入院することになるまでも、なってからも、僕は姉ちゃんの裸を見たことがなかった。子供のころには一緒に風呂に入ったこともあった気がするけど記憶がない。僕は頭を抱え、言葉にできないショックと恐怖でイリニウムの廊下に沈んだ。しばらくして激しいバキューム音と呻き声が部屋の中から聞こえてきた。僕はあわてて立ち上がり、ドアを開けた。姉ちゃんの口の中に管を入れて気管を吸い上げていた。壁に取り付けられた透明なガラス筒の中に白濁した液体が落ちていく。姉ちゃんの腕が伸びて、なにもない宙を必死で握ろうとしていた。

「もうすこしよ、もうすこし我慢してね」

 看護師たちが口々に言う。体中の汗が噴き出した。

「よして……よしてくれよ。やめてくれ!」

 けたたましいバキュームの音が止むと一気に静寂が戻った。「気管に痰が溜まるのよ。放っておくと誤飲して肺に入ることもあるの。肺炎になったら大変でしょう?」看護師が言った。彼女たちが出て行ってドアの閉まる音がするまで、僕はそこに立ちすくんでいた。息を整え、よろよろと姉ちゃんに近づく。僕が声をかけるまで、姉ちゃんは僕に気が付かない。両目を開いたまま、天井だけを見つめていた。

「だいじょうぶ? 姉ちゃん……」

 姉ちゃんは視線を僕に向け、突然思い出したように瞳を広げ、小さな子供のようにほほ笑んだ。

 しけん、できた?

 できたよ、と僕は答える。どってことなかったよ。むずかしくなかったから。

 姉ちゃんがほほ笑む。それから、えらいねぇ、と言った。姉ちゃんの口から姉ちゃんの腹の中のにおいがした。つんとした、酸っぱいにおい。

 姉ちゃん、しんどかったら、ここを出ていこう?

 姉ちゃんはは僕と姉ちゃんの間にある空を見つめたまま僕の言葉を聞いた。表情は変わらない。

 おれが連れ出してやるからさ、ここを出て行ってもいいんだよ? おれが背中におぶってやるよ。じいちゃんとまた三人で暮らそう。おれも飯作れるようになって、食わせてやるよ。大丈夫だよ。やっていける。もう痛い目に合わせないから。おれが姉ちゃんを助けるから。ぜったい助けるから。

 言葉は空気と絡んで白い壁に吸い込まれる。僕はねえちゃんの小さな手を握ったままシャツの裾で顔を拭う。天井を向いたままの姉ちゃんの瞳から、涙がこぼれた。開け放した窓から新鮮な風が入り、レースのカーテンを揺らす。

 くたしたいなぁ……

 姉ちゃんが言う。

 ゆうやと、おじいちゃんと、またいっしょに、くらしたいなぁ……

 握った手の反対側の腕から点滴の管が伸びていた。


 

 

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