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日記を書く

今の私には説得力がない。

「たとえ自分の身に降りかかった父親の自死の影響があったとしても、自分で自分をコントロールできずに3年半付き合い、同棲していた彼に、不安や恐れを的確な言葉で説明できずに、彼が傷つくと分かってて怒りを抑えられなかった、怒り狂った、大切な人を大事にできなかった私が、対人に関することや世の中に対することを述べても何も説得力がない」

「いや、そんなことない。誰だってそうなると言ってくれる人もいる。自分以外の人が死ぬことが怖くなって、誰かに助けを求められたら自分の状態を無視して手を差し伸べようと必死になったら、自分のことがわからなくなって、怖くて、彼に安心を求めてそれが依存へ変わっていくなんてそんなことは当たり前のことだよ。仕方がなかったんだよ」

そっち側とこっち側の思考が毎日対立している。
後者が優先になると私は文章を書き、前者が優位になるとそれらを静かに破って排水溝の中に踏み込んで捨てる。

だけど私は書きたい。
けれど、書くのが怖い。
それと同時に書けなくなることも怖い。
でも、本当は書きたい。

書きたいけど、どうしたって自分自身を被害者のように考えているのが透けて見える文章が立ち上がるたびに、落胆する。
それからその事実に対面するたびに、前者が優位になっていくのだが、そうなると排水溝なので、私には書いていく道が見えなくなる。

そこでせめてもの気持ちで辿り着いたのは、
日々の中で見つめたもの、自分の気持ちを書き残す。そこに無理やり答えは出さないということだ。
自分の中に何かを見つけるまで、目の前にある仕事をし、書き続けるのは日記だけに。

本当は書きたい。書きたい。

本当は時々書いていた。ずっと書いてきた詩を書いていた。形にしてみたこともあった。
後者の自分を無視し、前者の自分を抱えても書くことができるものをと。とどうにか抜け道を探そうとしている。
結末はわかる。排水溝だ。

最近はたとえ自分の膿を出してしまったとしても、それはiPhoneのメモに留めている。
私は何も述べる資格がないと思う。
彼のことも私のことも、父のことも、書き残すことをしたとしても、本当は答えなど見つかってないから、なにを述べても私は許されようとしかしていない。

わかんない。
自己を責めることは、他者を追い詰めることにもなる。もうそんなことは2度としたくない。

それなら、やはり書いてもいいのかもしれない。
誰に許されようとしているのだろうか。

ただ、今は完全に前者が優位の日々が続いているのである。

だから今日も私はせめてもの日記を書く。

「20240722
今日は仕事へ行った。
新幹線が止まる中、電車はいつもの如く動いていた。ただ座っているだけで別の街に着くことを毎日しているのを不思議に思った。
取引先の人から帰れないので仕事ができないというメールがくる。
間接的に社会とのつながりを感じる。

帰り道にiPhoneのメモに残してる文章を見返した。書き物をするという何者でもない私の小さなプライドについて考えたら、最近書いていた文章なんて自分を取り繕うための保険だと思った。最悪だった。

最近始めたスケジュールアプリで、過去の有名人の名言を1日一つ教えてくれる。
ガンジー、「人に尽くすことで自分が見えてくる」って言ってた。
あなたを信じて、明日からやってみようかなと思った。

自分が、見たい。自分を知りたい。
私は日記を書くと言って、結局色々書いている。そして結局書いている。

AIが、日記を書くことはいいことですと私に言う」

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