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結婚する気はなかった。子どもを産む気もなかった。

30になる年の5月、ギリギリ29歳で私は結婚した。

駆け込み婚(というのかな?)と思われそうだが、正直なところ、私はもともと結婚する気がなかった。
それは親にも宣言していた。

ありがたいことに、男性並みの給与を得られる職についていたし、それは普通にこなしてさえいれば、まず首になることもなかった。
そして自分のやりたい職だった。
だから、生活のために結婚する必要もないし、結婚してしまえば妻として、母としての役割を任されてしまうことが嫌だ。
と、親には説明していた。

私と両親は似た仕事を生業としていたので、母親は得心のいった顔をして「主婦業とこの仕事の両立はキツいものね」と言っていた。
今よりもなお、女性が家庭を任されていた時代の人だった母は相当に苦しかったのだろう。
それを痛感されられるほど速やかな納得だった。

母は48で身体を壊し、職を辞した。
働いている頃も、かなりのヒステリーをほぼ毎日起こしていた。
私はあまり頭の良いほうではなかったので、「勉強ができない子は嫌いだ」「そんな子は私の子ではない」「兄は天才型、姉は努力型、お前は怠け者だ」「お前なんか死んでしまえ」と言われることも度々あった。
実際、中学3年生のときには、私の頭の悪さを心配した母が毎晩勉強を教えてくれたが、疲れと眠気で気が立っていた母は、私が間違えるたびに暴力と暴言を浴びせていた。
平手打ちはいつものことで、辞書で殴られる、髪を掴んで引きずられる、引きずられて倒れたところを蹴られる、そんな毎日だったので、夜が来ることが恐ろしく、また朝が来ることが辛かった。

そのせいか、小学校中学年あたりから大学あたりまで、死との壁が薄かった覚えがある。

どんなときでも「もういいかな」「死のうかな」というような感じで、死へと向かう境界線はいつもぼやけて曖昧だった。
そしてそれは影のように、常にどこかが私とピタリと重なっていた。

「それって異常ですよ」

と教えてくれたのは同僚だった。
週に1度ほど暴力を受けることがある、と相談にきた中学生がいた。
毎日死にたいと思ってしまう、と。

へえ、そうなんだ。まあ普通じゃないかな。お年頃だしなぁ。

と私は気楽に聞いていた。
深く傷つき悩んでいる本人を目の前にしてそんなことは言えないし、相談された以上はどうにかしようと思うのだが、一過性のものだろう、折り合いがつけられる日が来るだろう、とも思っていた。
死にたいと思いながらも私がしてきたように。

しかし彼女は言った。
「週に1度、月に4回も暴力があること、死にたいと毎日考えること。これは異常ですよ」と。

そうなんだ。

驚いた。ショックだった。
幼い子がびっくりしてぽかんとするような、そんな心持ちになった。
そして、それを普通だと思っていた自分と彼女の差にも驚いた。

あ、やばいな。と思った。

私のこの感覚で相談を受けちゃいけないな、と思った。
この感覚を当たり前と思っていたら、相談してきた子どもはそれをすぐに見抜くだろう。

そして
私が結婚すまいと思うこと、子どもを産みたくないと思うこと、それらの原因のひとつは、もしかしてここだったのではないか?
結婚自体は嫌なのに誰かを付き合うという矛盾した行動の原理はここにあるんじゃないか?
常に誰かに嫌われているのではないかと疑心暗鬼に襲われる原因はここにあるんじゃないか?
恋人や親がいつ予定を入れてもいいように、友だちとの予定は入れられない、そういった強迫観念じみたものがある理由は、もしかしてここにあるんじゃないのか?

親に愛されていない、と感じたことはもちろんあったが、「いや、そんなはずはない、愛されているはずだ」と考える頭もあった。
愛されている実感があるというわけではなく、機嫌のいいときの母は「愛してる」とか「大好き」と口にするし、料理や洗濯や掃除もしてくれている。
小学6年生までキスされていたし(嫌すぎて中学生になることを理由にやめて欲しいと断るようになった。それについてもかなり悪く言われた。当時は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。が、どうしても受け入れられなかった)、とりあえず少なくともネグレクトではないし、それはつまり愛されているのだろう。
と結論づけていた。


今ならば、これは虐待のひとつだ、と思える。
非常に見えづらく、判断の難しい類の、しかし確実に虐待のひとつだ、と。
しかし当時は思えなかった。
まわりに相談することさえできなかった。
なぜなら、父親も姉も、虐待だと思ってはいないから。

これは普通のことだ。
私がうまくできないからだ。

としか思っていなかったから。

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