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江藤有希トリオ を語る

 2017年9月23日、小野田のワカヤマさんで、待望の、江藤有希トリオの ライブがあった。ヴァイオリンとチェロ、そして、我らが笹子重治氏のギター。
 クラシックの枠を余裕で超えて、月面宙返りで見事な着地をする、9.97 くらいの弦楽三重奏である。
 リハーサルからずっと立ち会い、その後圧巻の本番が終了し、一晩過ぎてあらためて、いろいろと考えさせられた。
 そのあたり、たわいない話だが、思いつくまま率直に書きたいと思う。

 まず、このような演奏には、余程のことがない限り、普通は出会えず、また、間近に生で聴ける機会など本当にあり得ない贅沢さだということ。
 もちろん、山口で。
 そしてプロとしての、キッチリとした高度なテクニックに裏付けされたアンサンブルを、たとえ年に数回でも自らが全身で集中して聴くことは、とても大切なことだと。

 私は、音楽……と偉そうには言っても、純粋な音楽的才能はほとんどなく、突き詰めれば、そもそもは「歌」「ことば」の人間なので、耳から入った様々なジャンルの音楽も、ついつい「ことば」の変換器、つまりコンバータ で翻訳したり立体化したりして脳内に取り込む習性がある。
 当然のごとく、昨夜の 江藤有希トリオ の演奏は、具体性を持って私が求めたい、やりたい音楽、そのものズバリではない。私に出来るわけもないが……。
 しかし、ひとまず聴き手にまわった時に、自分が追求していく道とは異なる、多種多彩な素晴らしい……しかもその一期一会を無条件で味わえる。そこに音楽というものの懐の深さというか、底知れぬ魅力があることにあらためて気づいたのである。
 そしてそこから受ける多大なる刺激は、必ず、自らが追求していく方向への貴重な追い風になる。
 だから、演奏を聴いたあと、心から聴いて良かったと思うし、さらに非常に素直で純度が高い感謝の念に包まれたのである。
 感謝はもちろん、演奏したミュージシャンに対してだが、その他にも、いろいろな要素に対して自分が感謝をしている現象が自覚できた。
 たとえそれが仕事であっても、その場を提供してくれたお店や音響、スタッフ、その場に来てくれたお客。
 さらに大きなスケールで、今の時代や、ここに至るまでの人間的つながりや、私自身が歩んできた人生、運命、この世に生を受けた喜び等。
 そして何よりも、57年かかって、自分の身に沁みこんできた「独自の価値観」に対する奇跡的な幸運の自覚。
 ふと胃袋から気管を通して突き上げてくる 「ことば」は、宇宙に広がる「ありがたい」 という 感謝のことば なのであった。
 私は、こう思う。
 たとえば音楽を、自分が最も大切なものだと据え付けて、自分なりに本気で追求しているような人こそ、もっと貪欲に自分のスタイルとは異なるが「本気で優れている他者の演奏」を、聴くべきではないのだろうか? と……。
 地方の文化的水準が、様々な方角から見て相対的にかなり低いということは、おそらく多くの人が共有せざるを得ない認識だと思う。
 その原因の第1は情報不足であろう。
 音楽という生き物は、ユーチューブ だけではわからないことだらけである。ホンモノが演じる生演奏は、数値化できないデータも含め、ものすごく純度が高い情報のはずだ。
 けれども、地方に棲息する ミュージシャンやシンガーソングライター は、ほとんど、積極的に、昨日のようなライブに足を運ぶことがない。根拠が薄い自己満足が、自意識の膨張を察知出来ずに、バカの壁の内側に引きこもる。
 一般のお客は、自分の意思で行動し、その結果、いい音楽を聴けて、それなりに素敵な時間を味わえて……そしてその対価を払うわけである。
 時々、ポスターを見てニオイを嗅いで、新たな出会いと発見を期待して、プチ ギャンブル気分で、初めてのミュージシャンを聴いてみる。それも、人生の楽しみ方として、実に素晴らしいことだと思う。
 そういう人々のおかげでミュージシャンはなんとか収入を得て生活していけるわけで、それはそれで、とてもありがたいことなのである。
 しかして、いかなるものだろうか?
 もしかすると、地方の文化的水準の問題は、情報の少なさよりも、知的好奇心というか、むしろそこに食いつく地元ミュージシャンの貪欲さの欠如が、大きな原因なのではないだろうか。
 私が育った 関西では、昔からなにかと使われる表現として、「腹を据える」とか 「腹をくくる」ということばがある。
 関西独自のことばではないと思うが、馴染みのない人は意味を推測してみて欲しい。
 私は、私に残された人生のすべてにおいて……私が死の間際に意識を失うその時まで、「いい歌を創る」という目的を、基軸通貨ならぬ基軸価値観に据えようと、数年前から腹をくくっている。
 腹をくくると、しぜんと視点が定まる。
 視点が定まると、焦点が定まりやすくなる。
 つまり、人生におけるピンボケ状態が激減するのだ。
 人間は日々の暮らしの中で、ピンボケ状態が減ると、だんだん魂のオートフォーカス機能が発達してくる。
 そしてそれは必ず、自身の本音の幸福感を喚起するのである。
 世にはびこる、悩みをかかえる人々の多くは、その原因が魂のピンボケであることに、うすうす気づいていると思う。
 だからつい、「本気になれる対象がない」と、口にするのだろう。
 話は いろんな方向に向いたが、私は、若い人こそ、対象はなんであれ、自分が本気になれる対象を早くみつけ、そして腹をくくることが肝心だと考えている。
 そしてもしもそれが音楽ならば……。
 冒頭に述べたように、自分の興味を勝手に限定せずに、プロとしての、キッチリとした高度なテクニックに裏付けされたアンサンブルを、たとえ年に数回でも、集中して聴くことは、とても大切なことで、必要なことだと、忠告したいのである。
 老婆心ながら……。

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