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評論 創作と価値観軸

 自分で創って……まあ私の場合なら新しい歌を一本書きおろして、それを家で自分だけで味わって楽しむのなら、人畜無害で自己完結する。

 社会的、経済的には、酔っ払って湯船で鼻歌を歌うのと何の変わりもない。好き放題に自分のワガママを表現して満喫できる。

 しかしそれを他者に見せる聞かせるとなると、いろんな邪念が混入する。邪念と言っても、必ずしも悪いものばかりではない。

 たとえは下品だが、自分の全てをさらけ出すことが創作物としていくら素晴らしいとしても、下着くらいは穿いて欲しいと願うようなものである。
 家の中でひとりきりなら、素っ裸でも何も問題がない。動物園のシマウマのようにそれはありのままの姿であるのだから。そして自然は、意外と風通しがいい。

 けれども人間の場合は、他者との関わりを他の動物よりも複雑・多様なツールを駆使して構築しているわけで、それらが所謂「文化」というものの一面でもあるように私は思う。
 そして文化のあるなしは、他の動物と人間の決定的な差であると言われている。
 だから歌でも文章でも、やはり根本には他者に伝える使命があるのだと言える。仮に結果的に他者に正確に伝わらなくても、創作時における「伝えようとする真摯な態度」の意識は必要なのだ。

 ただし創作物……創った作品が人の目にふれる……つまり、なんらかの形で外に発表し、ひとたび世の中に出てしまうと、その後それが世間でどう非難、批判されようが仕方がないということを理解して受け容れなければならない。

 もちろん「使われ方」などにおいては、著作権という法律で一部保護されるし、そこから何らかの収入が発生することもある。でもそれはあくまで 使われ方であり、思われ方や評価ではない。

 たとえ自分が完璧かつ最高だと思える作品であっても、誰かがそれをまったくの駄作だと感じるかもしれないのだ。

 もちろん「売れる売れない」は、多々ある評価基準の一面でしかない。資本主義的経済社会では重要かもしれないが、それがすべてでは決してないのだ。

 いいか悪いか、好きか嫌いかの判断。それはその人と創り手との価値観の違いであり、その違い自体は決して客観的に否定すべきではない。互いの主観を大切にしているからこそ、それを担保にして価値観のズレを語れるわけである。

 要は「差」の存在を認めることが基本だと思う。創作に主体的に携る人間にとってはそれが生命線なのだから。もちろんシンガーソングライターも……。

 また、作品の好き嫌い、あるいはジャンルの好き嫌いと、その人の人間性が比例するわけでは当然ない。

 仮に野球選手のイチローが好きなミュージシャンが、私が音楽的に特に嫌いなミュージシャンだったとしても、それでイチローという人物の評価が落ちるわけではない。
 つまり別の次元軸を混同してはいけないということである。あくまで軸を分離して相対的に見なければならないのだ。

 私なら、私の視線からの、私独自の歌に対する価値観の軸がかなり明確に存在する。ボンヤリとしておらず、非常に明確に……。

 ただしその輪郭や姿は日々刻々と変化する。そしてその変化に魂の焦点を合わせ続けていくわけだが、その焦点を合わせ続ける作業こそが、私の場合、生きるという現象とほぼ一致している……というか、長い年月をかけてようやくここまでたどりつけたという思いがあり、同時に自分が描いた理想にかなり近い。

 さてその私の価値観……これもなかなかクセモノで、円錐形で後方が無限に膨張している。でもベクトルは皆同じで、先は恐ろしく鋭い。
そのため同じ土俵・次元軸においては、非常にストイックになる傾向にある。
 たちが悪いことに、ついつい、自分の作品と同じように、他者の作品も見てしまう癖が生じるのだ。

 そこであまりに不甲斐ない作品に出会うと、他人事ではなくなり、その作者を自分に置き換えたり投影したりしてしまう。
 そうすると、会ったこともないその作者に殺意さえ抱いてしまうのである。
 これは自分へのものと同じようにきわめて厄介である。過激だし、まさに狂気の沙汰であり、精神疾患の手前かもしれない。

「死ね!」「今すぐ死んでくれ!」などと、大声で叫んでしまう。
 完全なるヘイトスピーチである。ただし、本人や公共の場では決して言わない。たいがいは自分の部屋か風呂の中で発散される。

 もちろんその怒りから来る「殺意」は、相手の人間性までを否定して殺戮・抹殺したいというものではない。そしてもしもその対象の人物、本人と会う機会があっても、実際にその人物を傷つけたり、失礼な言葉を吐いたりはしない。その程度の常識は常備しているつもりだ。

 そしてその時の自分の意識は、歌の価値観をそぎ落とした、その対象人物の人間性そのものに向けられるはずである。音楽のことはひとまず横に置いておいて。

 そのあたりを混ぜこぜにすると、コミニケーション不全を頻繁に起こすことになり、グルっと回って自分に跳ね返り、幸福も快楽も足早に遠ざかっていく。

 それでも時々、人間の陳腐さがその人の作品に見事に現れる様を目の当たりにする事がある。

 そういう場合は、その作者と一切の接触を避けるようにするしかない。

 実はこの世界には、いくつもの次元が折りたたまれたように積み重なり、抱合されあって存在している。次元は、それぞれ軸によって構成される。時間も軸のひとつでしかない。

 その軸……中でも個人から見た興味の軸が非常に重要で、これがたとえば、自身を研ぎ澄ましながら、独創性を価値観の軸にしてモノを創っている人物と、自分の幸福感……特に自分の感性との共感性を価値観の軸にしている人間とでは、まるで異なる次元で生きていると言える。

 このあたりのことを、以前、誰かが書いたインターネットの記事かブログで読んだことがある。見事な分析だった。

 この次元の相違は、あくまで価値観軸による次元のことである。そしてこの価値観軸は、どこまで伸びても永遠に平行線をたどり、決して交わる事がない。
 
 多くのコミュニケーション不全はこの軸の概念における理解の欠如から生じている。

 これもその記事に書いてあったのだが、その気になれば圧倒的多数の凡人は、一瞬で希少な天才を社会的に抹殺できるのである。
 
 
 
 

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