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浜学園

🖋 私が小学校の4年生から通った学習塾「浜学園」は、今では 株式会社浜学園といい、学習塾のほかにも、通信教育や出版などの事業を行う、大きな企業に成長しているだ。

 沿革をみてみると「浜学園」は、私が生まれる前年の1959年 、ダウンタウンが有名にしたAMAの、尼崎市潮江…JR尼崎駅のすぐ北側…に「英語・数学塾」の名で、創立されたと記されている。

 創始者は 上治貞子 となっているが、これは実質的経営者の妻である。私もたいそう夫婦両方から直接指導を受け、親身になって助けてもらった。
 妻が代表になったのは、おそらく、旦那である上治義雄氏が、公立高校かなんかの現役教師をしていたからだと推測される。
 翌年、同じく尼崎市の「浜」に教室を移転し「浜学園」と改称した。
 当時の浜学園は、上治夫婦プラス身内1人の3人によって運営されていたらしいがプラスアルファが誰だったのか、顔も雰囲気もカケラも記憶がない。
 1964年 - 尼崎市・下坂部…正確には、下坂部小学校及び下坂部市場のやや北側、バス停「城の堀」付近に移転し、有名私立中学を受験する本格的な学習塾をめざした。
 1969年、私が4年生に上がる時、浜学園が公開入塾テストを行った。入塾は小学4年生からと決まっていたのだ。
 尼崎市内、及び通学可能な近隣の、伊丹市や西宮市からも、各小学校の秀才が集う中、私、久保研二は、なんと最高点を取り、記憶に残る限り、あとにも先にも生涯一度きりのトップに輝き、私と同時に浜学園は黄金期を迎える。

 忘れもしない。
 私とわずか1点差で2番、さらに1点差で3番になったのは、共に園田小学校の秀才、Y と Sだった。
 しかもその1点を分けたのは、漢字の読み取り問題、「注ぐ」が、(そそぐ)だとわかったか否かの差で、もう一つは、「首相」の読み。
 Sはこれを「しゅそう」と回答したのだった。小学校4年生なら、いたしかたない。
 もちろん私は両方問ともに正解で、最高点。
 入塾時、クラスは成績順に、A.B.Cの3クラスに振り分けられる。まさに1軍2軍3軍である。しかも何ヶ月かごとに成績順で入れ替わりがあるので、気が抜けない。
 私は入塾時トップだったので、わざわざ代表が自宅まで入塾の勧誘に来て、もちろんAクラスで入塾した。
 その当時の浜学園は、超難関の甲陽中学には合格者を送り込んだことはあったが、その上の灘中の合格者は生んでおらず、まさに灘中合格者をだすことは悲願だった。
 よって、私を必ず灘中に入れてみせる、と言いきった。
 さてその3年後、入塾時は2番3番だった園田小学校のY と Sは、塾の成績で、とっくに私を追い抜いていた。そして共に灘中を受けたが、落ちた。
 私は受験の寸前の育英社の模擬試験の順位が突然1000番台まで落ちたので、びびった親と教師とのネガティブなミーティングの末、灘中より、甲陽、六甲、…と、3段もレベルを落とした関学中を受け、そのおかげでなんとか無事に合格した。これも運命の妙である。
 当時、灘中から順に、浜学園から名門中学に合格した生徒の実名を印刷した折り込みチラシが、読売、朝日、毎日の新聞にはさまれて配布された。
 そこには、「灘中 1名」とあり、一際大きなフォントで、Kという男の名があった。
 我々の同期がひとり、最高峰、私立中学のエベレストである灘中に見事合格し、これが浜学園創設以来最初の、灘中合格者になったのだった。
 実はそのK、びっくりするほどカンニングやインチキが巧みな奴だった。
 もともとずば抜けて頭が良いのは事実なのだが、その上でさらに、しなくてもよいズルをするので、より、塾の中で高得点をとるのだ。
 塾の成績は、当然客観的な実力には比例するはずだが、それ以上に内側社会のプライドの甲乙であることを知った上で、私はそこまでして塾の成績をあげたいとは思っておらず、その貪欲さの欠如が、いまだに私の財布を薄くしているのだと思う。
 Kは、おそらく、親や教師の目を気にしたにちがいない。しかも、真剣ではなく、サラリと余裕でかわした風格があった。たとえカンニングをしたとしても。
 隣り合わせで、回答用紙を取り替えて答えあわせをする時は、私の誤りを素早く訂正して赤丸をつけ、同時に私にも同じことをやらせた。有無を言わさず、毒と蜜を飲ませた手腕はさすがだった。
 おそらくこういう男が、将来、東大に行って、官僚にのぼりつめるのだと子供ながらに舌を巻いた。
 
 さてその後の1973年、浜学園は伊丹に最初の分教室を開設。翌年は西宮に進出し、途中経営権の裁判沙汰も経て、現在に至る浜学園の根幹が形成されてきた。

 そして、本日、2020年10 月4日。
 1964年からの浜学園、下坂部(城の堀)時代の、教室あとを、なんと半世紀近くぶりに、私はおとずれたのである。
 そこには、賃貸住宅が建っていた。けれども名前が「浜ハイツ」。
 きっと歴史を残したかったに違いない。
 この建物の前で、昼休み、よくクニャクニャの軟式庭球で野球をした。
 懐かしくて、胸の奥底から涙が滲み出た。

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