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五右衛門風呂

 トイレの窓から冷え込んだ朝を見つけたら、
私はそのあとすぐに、お風呂を焚きます。

 湯船に水を張り、蓋をして、外に出て廃材を釜に突っ込んで、古新聞を丸めて使い捨てライターで火を着けるのです。

 実は釜の中を安定して燃やすのは、意外と難しいのです。
 煙突から白い煙があがっても油断をするとすぐに鎮火してしまいます。
 燃えていたのは軽い紙ばかりで、廃材にはちゃんと燃え移っていなかったということです。

 その日はいつもより慎重に、時間を空けて三回も釜の様子を見にいきました。そして、もう釜の火は大丈夫だと踏んだのでした。

 その後数十分経ってからお湯を確かめると、ほんのり暖かく、まだかなりぬるめだけれども通常ならここからどんどんと熱くなるので、今から入ればちょうど良いと考えました。

 そして給湯器のスイッチや温度設定を確認することなく、その場で着ていたものを全部脱いで湯船の淵をまたいだのでした。

 浴槽の底までおしりを沈めた時、わすがに後悔しました。底の方は思ったよりも温度が低かったからです。
 また、もともとがぬるめのお湯に、この時期の冷えきった身体がドボンと浸かると、瞬間的に湯温がさらに下がりました。

 でも大丈夫。これから一気に加熱して、浴槽に身体を密着できないくらい熱くなるのですから……のはずが、今日に限ってなかなか浴槽が熱くなってくれません。

 裸眼で小窓から煙突の先を見上げると、何となく煙が出ていないようにも見えます。
 それでもついさっきまでは勢いよく燃えていたわけですから、釜は余熱をじゅうぶんに持っているはずなので、たとえ時間を要してでもお湯はいずれ暖かくなるはずです。

 しかし、なかなか……かと言ってすでに寒さを感じている濡れた裸体のままで、小雪散らつく外に出て釜に火を加えるのは自殺行為です。

 わずかな期待から、蛇口をひねり、給湯器のお湯を湯船の外のタイルに打ちつけながら調べてみましたが、やはりいつまでたっても冷たい水しか出ませんでした。
 元のスイッチをこの日に限ってご丁寧に消していたのでしょう。

 進退極まった私は、それでも冷静に考えました。この状況で風邪をひかないために何をすべきかなのかを……。

「そうか! もしかしたら湯面から湧き上がる湯気から逃げる温度の方が、加熱する温度よりも勝っているのかもしれない!」

 私は最後の手段に出ました。
 さらにお湯に深く身体を沈めて、腕を上に伸ばし、浴槽の中から器用に木の蓋をしたのです。
 これできっと保温効果が高まるはずです。

 視界はもちろんほぼ真っ暗。
 体育座りをした下唇のすぐ下にお湯があります。なんとなく酸素の薄さを感じるから不思議です。
 大人になってから、こんなに狭くて暗い場所にひそんだ記憶がありません。ものすごく懐かしい感覚です。
 これは確実に、子供の時に散々経験した感覚です。母親の胎内にいた記憶かもしれません。……父親と丙丁つけがたい、とんでもない母親でしたが……。

 押し入れの奥や洋服箪笥、車のトランクや階段下の物置き等々……何故かミシン油の匂いまでを思い出しました。
 記憶というものは無意識に五感に刻まれているようです。
 そしてそれらが第六感を繊細に染めて、編み上げているのだと思います。

 息を潜めると、自分の鼓動と一緒に色んな音が聞こえてきます。
 鳥の声、風の音、そして地球が地軸を中心に回るきしみ音さえ。
 やがて、釜の中で、がさつく音がしました。燃えた廃材が崩れたのかもしれません。
 すると今度は、チャポン、チャポンと、水の音が聞こえてきました。
 これは実に不思議です。温められたお湯が何らかの動きや水泡などをつくり音を出しているのでしょうが、お湯は湯船の中にしかないはずです。

 暗さに慣れてきた目をこらして、原因を突き止めようとしましたが、無駄でした。
 それでも、チャポン、チャポン……。

 それからいったいどのくらいの時間が経過したでしょうか?
 かくれんぼなら、とうの昔にみんなあきらめておうちに帰ってしまったはずです。

 結局さほどお湯は温まらず、あきらめて湯船を出て濡れたままの身体で震えながら台所に行き、ピッと給湯器のスイッチを押し、ピピピピッと43度に温度設定をして、再び浴室に戻ってシャワーをひねりました。

 お湯になるまでのしばらくのあいだ、冷たい水が足元に流れます。
「ヒエッ! ヒエッ!」と、飛び跳ねているうちに、ようやく熱いお湯が出始め、湯気がもうもうと湧き上がります。

「これを待ってたんや!」

と、はしゃぐが早いか、後頭部をまずシャワーに当たるように持参しました。

「助かった……」

 ところで、
 私はいったい、いい歳こいてさっきから何をしているのでしょうか……。

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