見出し画像

【三歩下がりて】

 同級生のほとんどが、関学の大学に進んだあと、さびしさと懐かしさが混じったまま、時々私は、母校の高等部に顔を出した。

 でも、私が行くのは職員室ではなく、校舎からほんのすこしだけ離れた位置にある体育館の入り口、体育教官室である。

 教官室にはいると「恩師」が、

「おっ、よう来たな」と、やさしい声をかけてくださった。でも、

「久保、せっかく来たのに、悪いんやがな、今からちょうど授業なんや。 授業が終わるまでここで待てるか? それまで教官室で、麦茶でも飲んどってくれ」

 一時限が、たしか、45分か50分……。

 私は、センセに言われるまま、教官室の中のソファに座わり、守衛さんと、ひとことふたこと世間話を始めた。

 するとその直後に、センセが教官室に戻ってきた。
 思わず、守衛さんがたずねる。

「水崎先生、何かお忘れものですか?」

 センセが答える。

「なんも、忘れとらん」

「えっ? 授業は?」

「終わった」

 まだ授業開始のベルが鳴って5分ほどしか経っていない。

「よし、久保、茶ぁしばきに行くぞ」

「は、は、はい」

 そして守衛さんに向かい、せんせが、

「なんか急用があったら、タケキュウにおると言うといてください」

 私は感謝と爆笑がごっちゃになって、子ウサギのようにセンセのあとをついて行った。

 そうだ、これこそ、
「三歩さがりて、師の影踏まずにスキップルンルン」なのだ。

 久保研二 19歳の、淡くて濃厚な春の思い出である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?