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エッセイ ませた高校生

 関学高等部時代からの同窓生との付き合いをあらためて振り返ってみると、意外と現役の時にはほとんど付き合いがなかった友人と、大人になってから当たり前のように付き合っていることに気づいた。

 その中には、現役高等部生だった時にはほとんど話をしたことがない、さらにはその存在すら知らなかった人物も、そこそこ居るから驚きである。

 私は中高6年間、サッカー部に属した。
 よって、その前後の学年との面識は自然と出来た。

 1年上は、森井さんらの学年。森田さんや栗林さんや山田さんや辻さんや船津さん、中でも、亡くなった、憧れの先輩、中川の健さんがいた。

 下は、同じく亡くなった大橋や、石田、吉竹、田村、藤本、橘高など、さらに中学1年で早々にダブった、現在は行方不明の幸得。

 私は、中途半端だったが、学友会(生徒会)や音楽をやっている連中ともつながりがあったので、そのあたりの人脈は多少は持てたのだが、今から思えば極めて限定的だったと悔やまれてならない。

 それから同級生が皆、無事に大学を卒業し、社会に出てしばらくした時期から、ちょこちょこと新たな付き合いが生じ始めた。

 当時私はHONDAで車を売っていた。

 そしてその頃から薄々感じ始めた事。

 それは、同窓生と言うものは、現役の時の付き合いの濃淡が、ほとんど後世に影響を及ぼさないのではないかということであった。あくまで仮説だったが。

 例えば我々の学年で音楽をやっている人間の中で、今は羽毛田が出世頭だが、イチ早くメジャーデビューしたのは北田だった。

 ジャパンレコードから関西パンクの筆頭として、《 INU/飯喰うな》がリリースされたのは、1981年3月1日。我々が21歳になる年だった。

 だがその北田でさえ、私が本格的に付き合い始めたのは、遠の昔に"INU"が解散したあと、30歳を超えてからである。

 余談だが、その数年後の2000年に、INUのボーカルだった町田町蔵が、町田康となり、「きれぎれ」で第123回芥川賞を受賞した。実に羨ましい。

 39歳で死んだ杉中も、卒業してからの付き合い。

 同窓会のまとめ役の難波は、中西や林や子分の若林らとセットで、近寄りがたいダーティーなイメージを持っていたが、彼とは50代後半でようやく会話を交わした。

 宮永も牧も同じである。

 よくよく考えれば、同じF組だった柿本も、卒業してからの付き合いだった。

 特に秀才の田中魔太郎とかは、現役の時は全く別の次元に住む人間で、さらに武田先生に至っては、ほんのつい最近。
 
 先日亡くなった池上などは、本人の葬儀の場で初めて私の方から棺に話しかけたぐらいである。

 さらに今月末には太田が仲介役となり、内田の実家の引っ越しを手伝うことになっているが、顔を見ればわかるかもしれないのだが、実は私は内田を覚えていない。

 現役高校生の頃の付き合いが、その後の付き合いに全く関係ないというのが、同窓の特殊性であるという仮説は、この年になってほぼ、事実だと確定した。

 あらためて……思春期に同じ空間に集い、同じ空気を吸ったという歴史的事実は、お互いがその時代に少しも意識していなくても、臭いようだが"見えない不思議な絆"で結ばれているのである。と、断言できる。

 山口に来てからも、若い子と接する機会はそこそこある。
 高校生はさすがに少ないが、大学生……山口大学のアメリカンフットボール部員とかと飯を食って話すと、その予想外の幼さに、自分たちの頃のイメージとの大きな落差を感じることがある。

「自分たちの時は、まわりも自分も、もっと大人だったような気がする……」

 でもそれは、多分その時代その時代にありがちな錯覚であるに違いない。

 エジプトのピラミッドの壁に「近頃の若い者は」と言う落書きがあったとかなかったとか……。

 我々関学高等部生の面々は今の大学生より大人びていたと言うのは、おそらく私たちが勝手に描いて記憶している幻想に違いない……いや、そのはずだった……ある出来事を思い出すまでは……。

 およそ300人余りの高等部同窓生の中で、ここ数年、私が公私共に最も濃い付き合いをしているのは、実は神戸のカメラ屋、太田である。

 太田は中学部の時から既に"肺がん太田"と呼ばれていた。

 ただし喫煙や飲酒ごときで、マセているとするのはおかしい。
 公立の中学や高校には、はるかに子供離れした「ワル」が大勢いたし、現に私の幼稚園の時の相棒と、小学4年の時の相棒が、15才の時にタッグを組んでタクシー強盗をしでかしたのだから。

 太田とは、高等部の2年3年が同じF組で、クラスメートだった。

 互いに地味な存在とは程遠いキャラクター故に、当時から付き合いが頻繁であってもおかしくはないのだが、実際には違った。

 別に嫌って避けていたわけではないのだが、存在は嫌と言うほど知っているにもかかわらず、プライベートの接点が、たまたま皆無だったのである。

 太田は決して"良い子"ではなかった。
 テストでよくカンニングをした。

 ある時は、ダウンパーカーの内側にぎっしりとメモを貼り付けた。
 ダラダラと汗をかく太田を案じて教師が、暑ければ上着を脱ぐようにと諭したが、太田は熱があって寒いと言い訳をして、その場をごまかして乗り越えた。

 またある日は、コートの内ポケットにウォークマンを仕込ませてテストに臨んだ。これはかなり計画に無理があり、功を奏しなかったらしい。

 中でも最も大胆だった犯行は、配られた問題用紙を1枚、素早く窓から中庭で待機していた人間に渡す戦法だった。

 自分の列の最後尾が、当然の成り行きで、

「先生、テスト用紙が1枚足りません!」と申告する。

 教師の曽〜やんが、

「あれっ? おかしいな……ちゃんと数えたのに……」と言って、慌てて職員室にとりにいく。

 その間に窓の下の、たしか津川だったか三宅だったかが、急いで答えを記入して太田に返すのだ。

 太田もその時はさすがに、解答を独り占めせず、可能な限り座席の近隣諸氏と共有した。

 万が一不正が発覚すれば、停学・謹慎、場合によっては大学推薦が吹っ飛ぶかもしれない。

 当時の我々は、不正の是非よりも、その大胆な犯行を実行する太田の発想力と度胸を、笑って良しと評価したのだった。

 そんな太田の家は、今も昔も、神戸の花隈にある。山健の近所だが、かろうじて公安委員会の使用制限がかかっていない。

 須磨浦公園方面から来る阪急電車で、必ず一緒になるメンバーが、

 和田岬の金子。
 八百屋のやっさんこと河合康貴。
 お猿の落合。
 そして肺癌太田だった。

 この4人はいつも一緒で、私はこれをなんとなく、いや相当激しく、羨ましいと思っていた。私にはそこまでの同窓生がいない。

 そして予想通り、中学1年から還暦を迎える歳まで、その4人の付き合いは一切かげりを見せていないから驚きである。

 私は、なぜか社会人になってだいぶ経ってから、何かの仕事で太田と付き合うことになった。
 
 さて、そこで記憶をたどったのである。

 現役時代に私が太田と交わした会話で記憶しているのは、たった一度きりだった。

 その1度が、あまりに強烈だったため、今も鮮明に覚えている。

 忘れもしない、それは体育の水泳の授業でのことだった。

 太田は取り巻き数名と、別に病気でもないのに水泳をサボり、おそらく見学しているふりをしながら教師の目を盗んでタバコを吸っていたはずである。

 ゆるい水泳の授業が終わり、私は水からあがった。

 そして濡れた髪の毛をバスタオルでふきながらプールサイドを歩いていると太田一味とすれ違った。明らかにカラダからニコチンの匂いがした。

 私の水着は部活でサッカーパンツの下に履くこともある、サポーターがわりの競泳用だった。

 太田が突然、何かを発見したように私に言った。

「あれっ? 久保ぉ…オマエ…こんまいガタイのくせに……」

 太田は私の股間に向けた人差し指の第二関節から先をちょっと折り曲げて、ピストルの引き金を引く真似をしながら、こう言い放ったのである。

「柄にもなく、"立派な道具"を、持ってるやないかい」

 私は生涯で一度も、そんな"物言い"をする、他の高校生に出会ったことがない。 了

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