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評論 いい歌とは?

 脳みそを冷たい水できれいに掃除したあとに、ゆっくりと流れる時間に身を委ね珈琲をひとくちすすると、徐々に全身にまとった鱗が溶けて剥がれていき、剥き出しの心臓だけが最後まで居残る。

 そういう状況で読むお気に入りの書物や聴く音楽や観る映画は、時として容赦なくゼリーのような心臓にガラス棒を突っ込んで、くるくるとかき回す。

 痛みを超越した感覚は究極の快感と化して私は喜びながら、泣きながら、たった一人でのたうちまわるのである。

 ところが最近新たに登場して巷に出回っているものには、胃がもたれてうんざりするものがやたらと多い。いくら冷静になっても、自分の魂や眼力が年老いたからだけではないように思える。

 もはや金銭至上主義が複雑にからんで盛り上がった陸地からなだらかに続く遠浅の海からは、薄く引きのばされて間延びした味わいしか求められないのだと、あきらめるほかないのかもしれない。
 
 そもそも昨今の海水はかなり汚染されている。汚れの元凶は必ずしも福島あたりで垂れ流しているものだけではない。

 明治維新以降、成長という名の下に極めて頑丈に張り巡らされた枠組みや組織というものが、溶けて腐って地面に染みて、あたり一面に溢れ出したに違いない。 

 今さらであるが私は、古いものが必ずしも良いとは言わない。
 古いだけでくだらないものも星の数ほど存在する。

 昔の日本人にも腐った奴はいくらでも居た。

 それでも、今より多少はきれいな水に棲んでいたからだろうか、身は、萩や長門の魚のように、どこか新鮮でコリコリとした歯ごたえがあったように思える。
 
 古いといえば文字通り「古典」を連想する。

 その「古典」の反対にあるのが「前衛」である。

 前衛という言葉はフランス語の前衛部隊から来ているという。

 芸術や文化において前衛的というのは革命的でもあり、通常我々は「アヴァンギャルド」と呼び最先端に位置する芸術家を指す。

 音楽や文学や絵画や映画等、様々な分野にアヴァンギャルドな表現者が存在し、彼らは常に私の憧れでもあった。

 音楽なら、ジョン・ケージやフランク・ザッパ、絵画ならピカソやバスキア、日本では岡本太郎や赤瀬川原平がそうである。

 けれどもアヴァンギャルドが最先端を切り開く以前に何があったのかというと、それはやはり「伝統」にほかならない。

 そもそも伝統はアヴァンギャルドから生まれたと言っても過言ではないので、昔から続いている文化というものは、それが生まれた当初は前衛的だったということになる。
 とは言いながら今現在の私にとっては、古典も前衛もほとんど眼中にないのだから、真っ昼間の不良中年は実に無責任極まりない。
 
 とにかく私は、ただひたすら「いい歌」を創りたいという欲望の占領下で魂が拉致監禁され続けている。

 ところがその「いい歌」という定義がこれまた怪しい。

 ひとたび考え始めると、思考の追い駈けっこが始まり、簡単に無間地獄に陥ってしまうので、とりあえずそれらしいのをみつくろって机の上に置くよりしかたがないのである。
 
「夏子の酒」という非常に優れた漫画の中で、造りがいい酒を良い酒とするという表現があった。これは、実に一理も二理もある。

 表現者が「生み出す」ものは時には「産みだす」ことであり、創作した作品は「創った」もので、その「造り」が重要であるのだから、あらゆるものが呼吸し合って実に感慨深い。

 その一方で、とてつもなく厄介な問題が生じている。

 特に自分にとって、いいものが出来れば出来るほど、世間の共感を得ることができないという経験的且つ現実的な事象である。

 このジレンマの落としどころとして、最も手っ取り早いのは、今の自分が前衛であるからだという開き直った認識である。

 もちろん自惚れでも独りよがりでも裸の王様でも、誰に何と思われようがかまわない。

 どうせ人の評価を受け入れれば、その瞬間に自分が自分でなくなるのである。それに、人の評価を纏うことは、人のふんどしで相撲をとるのにも似ていて、さらに言えば、私は他人の下着を履く趣味はない……というか、整理的に許せない。

 たとえどんなに私と同一の価値観を持つ人でも、たとえその人が、私の脳みその中に遊びにくることができたとしても、その場所で、ずっと一緒に住めるわけがないのだから……。了
 
 

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