【久保研二の生きた法律・かんにんやで】
法律とはそもそも、なるべく明確に、ここまでは目をつむるがここから先はダメ、と線引きされることが好ましいはずです。
取り締まる側の気分しだいで、逮捕されたりお咎めなしだったりすると、たとえば現場の警察官の裁量や権限が広がり、その結果、中国共産党様並の公権力の腐敗が繁殖する元凶にもなりえます。
とはいいながら交通違反が典型的ですが、捕まる捕まらないは「運」次第な場合も多々あります。
つまり我々が住むこの国は、世界的に見れば、北朝鮮なんかと比べてかなりマトモな部類に属するはずなのですが、それでも決して不確実ではないとは言えない社会であることを自覚した方が得策です。
余談ですが、かなり昔、私の仕事関係の知り合いからこんな話を聞きました。
彼が高校生の時です。彼の父親は当時相当ブイブイいわしていた、サブカルチャー系…レンタルビデオや雑誌販売とかのチェーン店の経営者でした。
その父親が、NHK教育に、ビジネスを切り口に出演するということで、彼はクラスメイトたちに自慢しまくったのでした。
ところがオンエアされて自慢した数日後、同じテレビが今度は父親の逮捕を報道したので、さすがのNHKもシャレにならず、しばらくは客が集金を拒む絶好の理由になったとか…知らんけど。
その時の罪名が「猥褻図画販売目的所持」。
ちなみにこれ「わいせつずが」ではなく、プロは「とが」と読みます。だから、
「わいせつとがはんばいもくてきしょじ」になるのです。
要は、レンタルビデオとかで、見えてるか見えてないか? であり、もっと言えば、ボカシが薄いか否か? ということです。
ボカシの可否についてはまた次の機会に譲りますが、今回はまず、それ以前の「猥褻」について。
「わいせつ」について、法的には、判例から下記のように解釈されています。
「徒(いたずら)に性欲を興奮または刺激せしめ、かつ、普通の人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的同義に反するもの」
整理すると、
① まじめな目的ではなく、ふざけて性的な興奮や刺激を与えること。
② 普通の人の、正常な性的羞恥心を害すること。
③ 善良な性全般に反すること。
以上が、現在も根拠となっている「猥褻三原則」なのですが、つっこみどころが山ほどあります。なんせ大正7年の判決がもとですから。
まず普通の人って、誰やねん?
久保研二が普通かどうかなんて、ほんとに人それぞれの立場や感覚で変わるはずです。
また、正常な性的羞恥心。
逆にどこからが異常なんかを教えて欲しいです。
そもそもまじめな目的以外があかんのなら、世の中にあふれている、たとえば日活ロマンポルノや…そらSMマガジンやSMスナイパー、漫画エロトピアなんかは一発アウトで、昔の週刊プレイボーイや平凡パンチでさえパクられても文句が言えません。
本来わいせつという概念は法的に定義された概念であるとはいえ、何がわいせつであるか否かは、その時代の文化や一般的価値観によって相対的に変化するものです。
つまり、わいせつか否かの判断は、決して普遍的に扱われるべきものではないのです。
現に従来なら一発アウトだった、いわゆる「ヘアーヌード」などは現在においては摘発対象になっていません。
ようやく本稿のテーマに到達しました。
「ヘアーヌード」です。
これ、ご想像のとおりよくある和製英語で、だいぶ前にアメリカ人の友達に、「そんな言葉あらへん、ふぁっとはっぷん歩いて10分」と、笑われたことがありました。
あえて言うなら、「pubic hair」と言うらしいです。知らんけど。
だいたいそもそも、日本以外の国では、下の毛の露出の有無なんて、猥褻の判断基準ではまったくありませんでした。
要は日本だけの、ひとりよがりの優等生的規制というか、不自由さだったわけです。
だから昔は、普通の洋画なんかでも、ボカシ修正が義務付けられていました。「映倫」という嫌われ者の権威です。
ばってん! 1990年代の初めに奇跡がおきました。なんと事実上の解禁状態になったのです。
そらもう、その時は革命というか、ベルリンの壁が崩れたようなもんでした。
写真集がバンバン売れ、写真集バブルが起きたのはその頃です。
その「ヘアーヌード」という言葉。
実は講談社の編集者だった、元木雄三…もとい、元木昌彦という人物が、週刊現代で、裸と毛の単語を勝手に組み合わせて表記したのが最初でした。
さて、いよいよ今日の"その時"がやってきました。
この元木昌彦は、この功績から「ヘアヌードの父」と呼ばれるようになったのです。
ワシ、なんぼ自分が功績を認められて有名になり、後世に名前が残っても、
「ヘアースプレーの父」とか、「ヘアードライヤーの父」ならまだええけど、こんな、「ヘアーヌードの父」なんかは絶対に嫌や。直訳したら「陰毛の父」でっせ、かんにんやで。
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