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大人の童話  森の時計屋

【森の時計屋】
         久保 研二 著
 
 眠りの森の入口付近、郵便局と山猫食堂のあいだを脇へちょっとはいった右側に、小さな時計屋があります。

 そこのご主人はとてもやさしい老人で、顔にくっきり「いい人」と書いてあるのでした。

 若い頃は、この森のすべての時間を決めるという、胃袋の内側の壁をすり減らすたいへんな役目を担ったこともありますが、歳をとってからはそんな時代のことはすっかり忘れてしまい、のんびりとお店の番だけをしていました。

 時計屋の仕事は、毎朝九時に店の鍵を開けて、「やってま」という小さな木の板を、扉の真鍮のノブにひっかけることから始まります。

 そのあと、ポットのお湯を沸かしているあいだに、壁に吊り下げたたくさんの時計のネジを、ひとつずつ、ゆっくりと巻いてゆくのです。

 全部の時計を巻き終わった頃には、ちょうどポットのフタがポコポコと浮いているので、火を止めて、少し温度が冷めるのを待ってから丁寧に珈琲豆にお湯を注ぐのでした。

 あとは蓄音機をまわして、読みかけの本を片手にロッキングチェアーに腰掛け、音楽を聞きながらひたすらのんびり読書にふけります。だって、お客なんてめったに来ないのですから……。
 
 さてこの森には、歳をとったら誰でも、なんらかの倶楽部に入らねばならないという、ゆるい決まりごとがあります。ゆるいというのは、もしも自分が気に入るような倶楽部が森の中を見渡しても見つからなければ、自分で好きな倶楽部をつくっても構わない、ということになっているからです。

 そこで時計屋のご主人は、「善人倶楽部」というのをつくりました。メンバーはとりあえず自分一人です。

「善人倶楽部」といっても、何か特別のことをするわけではありません。自分は「善人倶楽部」の部員だということを、普段からいつでも誇りを持って自覚することだけを活動の方針と定めたのでした。

 時計屋のご主人は、自分が考えてつくったこの倶楽部がたいそうお気に入りでした。だからといって誰かにそれを話したり、自慢したり、また他の人を誘い込んだりするようなことは、今まで一度もありませんでした。

 とにかく毎日、お店で時計のネジを巻いて、珈琲を飲んで、音楽を聴いて、本を読む。それこそが「善人倶楽部」の最もあるべき姿だと考えているのです。

 とはいいながら、中央公園の大時計がとんちんかんなことをしでかしたときなどは、梯子をかけて、ドライバーを片手に"仕事らしき"ことをしなければなりません。何しろ老眼ですから、手元が狂ってなかなか作業がはかどらないのです。
 それでもご主人は少しもイライラせず、終始ニコニコ笑いながらのんびりと時間をかけて修理をするのでした。

 ところで、この時計屋さんの一番人気の商品といえば、誰にどう聞いても、ダントツで"目覚まし時計"だと答えるにちがいありません。
 けれども、大きな騒がしい……ベルがけたたましく騒ぎ立てる目覚まし時計は、ここには一つも見当たりませんでした。

 このお店にある"目覚まし時計"は、カワセミのさえずりや、セキレイのおしゃべり、清流とカジカの合奏、そよ風のフルート、木々の葉っぱの井戸端会議、若い鶯の練習、コオロギと鈴虫のリハーサル……などがほとんどで、少し変わったところでは、カエルや蝉の合唱団といったところです。

 何しろこのお店のお客さんは、ほとんどが女性で……彼女たちは皆、自分のことをいつまでも若くて美しいと信じて疑わず、とにかく毎日安心してぐっすり眠ることが一番の生き甲斐なので、決まった時間に無理やり起きるということは彼女たちの趣味にまったくそぐわないのでした。

 ところで、お店の壁の一番奥の隅っこに、可愛い鳩時計が飾ってありました。一時間ごとに、小窓から鳩が顔を出して、ポッポ〜と鳴きます。

 それを何気なく眺めながら、ご主人が独り言をつぶやきました。

「昔は鳩時計が、よく売れたんだがなあ……」
 
 小さな森にも、なんとなく時間軸に沿った流行というものがあるようで、小さな時計屋にも、少しずつですが、やっぱり時間は流れていたようです。

 でも"目覚まし時計"が売れないのも、当然と言えば当然かもしれません。

 最初にお話したように、この森は「眠りの森」なのですから。  おしまい。
 
 
 
 
 
 

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