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腹の虫

 深夜宇部から山口に戻り、山口大学のすぐそばにある24時間営業のスーパー アルクに、明日の朝に食うためのパンを買いに寄ったら、山口にしては珍しく、駐車場に若造が7〜8人、地べたに座ってたむろしていた。
 私の前を歩いていた大学生風の兄ちゃんが、店内に入ろうとしたら、そのうちの一人に、
「友達になろうや」
「どっか遊びにいこうや」
 などとからまれていて、彼は実に困惑した表情で、早足に退散していった。

 しばらく間をとって、その後ろから、一応白いブレザーを羽織った……どこからみても聖人君子の私がスーパーの自動ドアをくぐったのだが、さすがに奴らも私には声をかけなかった。

 必要最低限なだけの買物を済ませ、さっきの入り口。今度は出口になるが…これまた、私の前を、さっきとはまた別の大学生が一人、歩いて先に出た。
 その大学生の後ろから、さっきの者が、ふざけた声とイントネーションで、
「ありぃがとござりました〜」などと、ちょっかいをかけたが、大学生は聞こえないふりをして、これまた歩調を速めて逃げていった。
 その10メートルほどあとから、私は出口を、普通の速度で通過したのである。もちろん、何の緊張感もなく。

 ところが、ここで予想外のことが起きた。私のことは絶対に無視するだろうと見切っていたにもかかわらず、私の背中から、さっきと同じように、
「ありぃがとござりました〜」
と、大きな声を発したのである。
 まったく、予想もしていなかった展開だったので、私は条件反社……いや、条件反射的に振り返って相手をにらみつけ、

「ワシに言うたんか?」
と、つい凄んでしまったのである。

「しまった! 数が多かったんやった」
と、気付いても後の祭り。
 これがいけない。私が生まれ育った尼崎では、絶対にこんな態度には出なかった。仮に一見猫のようであっても、後ろからそれをネタに、どんな虎や狼が、これ幸いと現れ負荷もしれない。
 長年身につけて来たはずのそんな緊張感が、山口に移住して10 数年ねうちに、すっかり五体から蒸発してしまっていたのである。

 けれども、こちらも、履いた唾は飲めない。それなりの覚悟を必要とする。後には戻れないし、尻尾を巻く気もしない。いくら身の危険があっても、それは私が歩んできた半世紀を根っこから否定する生き様になってしまう。
 私は、たしかに悪い奴らと、狭い地域で、それなりの揉め事や衝突や紛争の修羅場を思春期までに多々経験したが、腕っぷしは極めて弱い。だいたいは、常に主役の横に控える参謀役で、そのかわり、タンカとハッタリは、誰より上手かった。

 さて、私に声をかけた当人以外の7人が、地ベタから立ち上がり、急にざわつき始めた。

 私はとっさに、防犯カメラの位置を目で確認し、こうなれば、2、3発殴られるか、そこまでいかなくても、ちょっとでも身体の接触がおこればそれを機に転倒しようと決めた。そもそもあの防犯カメラは、音声記録がないタイプであるから、後の検証で、実際にはどれほどの力で転倒したかの証明は、ほぼ不可能に近いはずである。
 多分こやつらは、山大の学生であろう、まさかポン注(覚醒剤常用者)ではなく、多少アルコールか入ってるだけに過ぎない。
 ここで私が大げさに転倒し、とりあえず救急車を呼び、足首を捻挫した、腰が痛い、肩も打ったと、医師と刑事に説明すれば……まあ8人もいたら、その中にひとりやふたりは、金持ちの親が居るだろうと、心の中でニヤリと笑った。いったい、なんて自分はツイてるのかと。

 ところが私の問いに、相手は、大きく手を振り、
「チャウチャウ」と、否定したのである。

当然、拍子抜けしたが、せっかくのチャンスを簡単に手放したくはない。
 相手の引きを見て、今度は冷静に計画的に、かなりの腹式で吠えた。

「なんやその言い方は? なめとんのんか?」

 すると、真顔で、「すいませんでした」と、謝ったので、それ以上の手がなくなり、私は仕方なくそのまま車に乗ってその場を去った。
 が……帰宅してから、まだなにか、むしゃくしゃする。腹の虫がおさまらないのである。

 そこで馴染みの交番に電話をして、正確に状況を説明し、重大事案でもないし、シャブでもないとは思うけれど、タチが悪いし、一般市民に迷惑であるから、一応職質をかけて、名前ぐらいは聞き出しておいた方がいいのではなかいかと提案した。
 なにしろ交番から現地までは、バイクにまたがれば、ほんの数十秒なのである。

 電話を取った警官は、事情をよく飲み込んでくれ、私が誰であるかも大いに理解し、「交番長が仮眠中なので、すぐに私が対応します」と言ってくれた。
 さすがに交番長が立派な交番の警官は、しっかりと教育が行き届いている。

 数分後、報告があった。

「私が行ったら、入れ違いで解散したあとでした。それで警備員にたずねたら、確かに長い時間たむろしてたそうです。 それで、久保さんが帰ったあと、今度はショッピングカートに人を乗せて店内を走りまわったりして騒ぎだしたので、店長が一喝して、追い出したそうです」

「わし、嘘ついてへんかったやろ?」

「そんなこと、少しも疑ってませんよ」

「まあ、よかったよかった。アルクの店長、なかなかやるやん。無駄骨折らせて、すいませんでした。 仮眠してる交番長が起きたら、よろしく言うといてください。ほんならね〜」

 とりあえず、これで腹の虫もおさまった。
一件落着。

 だいぶ経ってから、交番長と珈琲を飲んでいたら、彼はそのことについて、部下から何も報告を受けていなかったことが判明した。
 まあ、たしかに事件にも職質にも至らなかったから、いいのだが……。

 今日も山口は平和である。
 空も山も青く、風が綺麗で水も清く、我が家の井戸水は美味い。
 けれども、
「あれからちゃうかな? 血圧高いのん」

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