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山口線唱歌

 2012年7月22日、私は蝉の豪快な鳴き声で、朝5時に目がさめた。右目を患っていたので、さめたのは、左目だけだった。

 昨日ようやく来月の歌、「山口線唱歌」の音が、ほぼ出来あがったのだ。

 この歌は、新山口駅から津和野までの、すべての駅の名前を、歌詞に織り込んである。

 そして昨日は、CDRに仮におとした音源を、何十回も聞き込んだ。

 歌というのは、あたりまえだが、作詞、作曲、アレンジ、歌唱、演奏、録音、効果音、トラックダウン、など、多くの過程、そして複数の人間がそこに絡んでいる。

 だからひとことで私の歌、といっても、決して自分一人のものではないのだ。
 これは謙遜して言っているだけではなく、現実の限界に対する不満でもある。

 歌を創るということは、わがままで自分の世界における独占欲が強すぎる、一般的に嫌な奴でなければできないと、常日頃から私は思っている。

 それでも、今回は、おおむね納得出来る作品が出来上がった。

 話はかわるが、先日、とある会合で、初めてお会いした方に、挨拶したら、

「えっ? あの"ガタンゴトン"を、創られた方ですか?」

「あら? そんな歌をご存知ですか?」

「子供がずっと歌ってて、それ何の歌? と、聞いて教えてもらったんです」

 "ガタンゴトン"は、2010年の7月に、1ヶ月間、テレビで放送された歌である。
「山口線唱歌」と同様に、山口線が舞台でありテーマでもある。

 その後、何10曲も、同じ番組で、他の曲を流してきたのに、
「まだ "ガタンゴトン" かいな?」

 というのが、正直な気持ちだった。

 まだまだ、新作にとりくむ私の精進が足りない、ということであろう。

 いずれにせよ、今日も、「山口線唱歌」を、何回も聞き込む。

 これは、創作の最終段階で、非常に大切なことなのだが、実は、私の癖でもあるのだ。

 親の証言によると、私は1歳を過ぎた頃から、当時は珍しかったテープレコーダーで、いろんな歌を飽きずに何時間も聞き込んでいたそうだ。

「みつ子の魂百まで」とは、よく言ったものである。

 ませていた私は、ことわざの3歳よりもっと早くからスタートしたが、百歳までは、とうてい生きる自信がない。
 いいところ90歳くらいではなかろうか……いや、これは欲張り過ぎであろう。
 とりあえずの目標は、まず、60 歳。

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