よき友へ

店名も場所も、どんな料理が出るかも、いつ行ったかさえも。
何も明かしてはならない。
この人なら、と心に決めた人以外は。
そう思える料理店が、この世界にどれだけあるだろう。
そんな店の予約日に、それまで予約調整をしてくれていた、最も楽しみにそのXデーを待ち望んでいた友人が、急遽来られないことになった。
そのため今回はその店の記録を残すことにする。
よき友へ。

今回は第一部と第二部に分かれていた。
まず第一部。
生ハムとシャインマスカットのタルト、 羊のラグーのプチシュー
一皿目、まだ一皿目である。
コース料理全体を通して「うまさ」「期待値」のグラフを作るとしたら、皿が出る前を出発点として、いきなりほぼ90度に跳ね上がる形をとるだろう。
意味わからんと思うが、それほど初速が劇的なのだ。

白状すると自分は「生ハムとフルーツ」という組み合わせが好きではない。いや、好きではなかった。
「生ハムメロン」という料理は、自分が生まれる前から「贅沢、かつかならずうまいもの」の象徴の一つとしてとらえられていることに異論はないと思う。そしてそれがどうも納得いかなかった。なぜならたいていの場合、メロン(ここは好きなフルーツに置換可能である)の甘さがどうしても勝ってしまい、せっかく生ハムがおいしく、またメロンもおいしいものだとしても、それらを「合わせて食う」ことに何ら意味を感じられないからである。本来昔のメロンはより青臭いものでキュウリに近く、そこに生ハムを合わせて食べやすくした、だの、古代人間のコンディションは4つの状態に分けられており、メロンが湿を生ハムが乾を…とかいう御託はもう現代において何の意味もない。いま、この場において、何の相乗効果も起こらん。むしろ生ハムをきちんと味わえなくなりすこしマイナスですらある。そういうつまらない皿でしかこの組み合わせを食べたことがなかった。
食材同士を組み合わせるとき、「1+1=2」を生み出しただけで満足していては、彼は料理人としてプロではないだろう。そうじゃないのか?

生ハムとシャインマスカットの、タルトである。
タルトとは「台」という意味らしく、スプーンを台に見立ててタルトと名付けている。
スプーンの不思議な造形も相まって手元ではデカく見えるが、余裕で一口サイズである。ふーん、シャインマスカットねえ、と口に入れる。
……少しでも舐めた気持ちで入って、大変申し訳ございませんでした。
もう一皿目の一口目から圧倒されシェフにスライディング土下座、いや土下寝で詫びたい。まだ一口目ぞ?!?!
これほど生ハムとフルーツが、そうこの言葉は安易に使われすぎてすべてを安っぽくしてしまうので本当は使いたくないが、きちんと「マリアージュ」を生んでいる「タルト」があるのか。
おそらくこれまでの「生ハムメロン」どもはすべて、「メロン」がデカすぎた。そして生ハムは乾いて、塩気が強すぎ、まさにワインのツマミとしてのザ・生ハムをうっすーくスライスしただけのものであった。高級フルーツの代名詞としてのメロンをでかめに切っとけばおまえら満足すんねやろ、という他人を思いやる気持ちについてアリんこ未満の料理人どもの傲慢が透けて見えるサイズ感覚により、これまでわれわれは図体ばかりでかく中身のない「独活の大木生ハムメロン」を食べさせ続けられてきたのだ。
シャインマスカットの粒に比べて生ハムの割合は大きい。そして柔らかく、塩は強すぎず、香りはきちんと層をなして口中をただようが後味はさっぱりしている(ただ自分はハムの良さをはっきり判断できる経験値がまだ無い)。マスカットの皮をかじると同時にはじけるみずみずしい甘さと組み合わさるとき、このタルトは「口の中で」完成する。そして一瞬で食べてしまったので記憶が飛んでいるが、たしかつなぎの役目としてクリームチーズが間に入っていなかったか?(間違っていたらすみません)フルーツの味は水溶性、生ハムの味わいは脂溶性だとすると、水と油は何もしなければ交わることはない。それらの橋渡しが必要なはずである。つなぎのチーズがその役割を見事に果たしている。
タルトでどんだけ文字数使うねんと言われそうなので二口目だが、羊のラグーがはいったプチシュー、前菜の「プチ」だと思ってナメてると逆に羊のすごみに口の粘膜すべてをナメ回され脳のしわひとつにいたるまで塗り込められるので、後続の客人は心してかかられよ。
そして卓中央に意味深に置かれたショットグラスに、まるで夏の夕日に照らされた稲穂のごときうすい黄金色の液体がそそがれる(こんな現実にはありえない例えをしてしまうほど、軽やかなのに郷愁をおぼえる、あやしい雰囲気をまとっているのだ)。これはコンソメ。シェフ曰く「香りを食べるもの。」先の2品(といっておきながらまだ一皿目である)は「味」を楽しむものであったが、これは「香り」であると。手元にない段階ですでに漂っているが、いわれた通り嗅ぐ。
もうなんなん。
やさしいのはその色だけ、鼻孔から香りが侵入してきた瞬間、どう猛な「肉のうまみ」がすべてを支配する。キャプテン・ジャック・スパロウが死者の国から現世に戻ったときのことをおもいだすがいい。「上は下」われわれは頭上にひろがり波打つ黄金色の動物性の海へ、吸い込まれるように天に昇りながら同時に堕ちている。ライ麦畑のふちではだれもおまえを捕まえない。

牡蠣のグラタン二種類 コンテンポラリーとクラシック
コンテンポラリーは無菌の海域でとれるという生食用の牡蠣を焼いている。クラシックの方はグラタンに牡蠣のうまみをうつしている。
後述するがシェフの思想のひとつに「対照contrastと連続sequence」というものがあるのではないか、と思い至った。この皿からすでに「それ」は始まっている。
コンテンポラリーの方から食べてみると、こちらは上に大葉のソースが載っており、「日本でフレンチを食べている意味」について考える。牡蠣じたいのうまみはあるが比較的あっさりとしている。グラタンと名付けられた料理にこんな感想は意味不明だろうが、不思議な爽やかさがある。「何言ってんだテメー」ものであろう。
クラシックの方、あきらかにコンテンポラリーよりも味が濃いだろうと思われたので後にしたが、正解だった。ホワイトソースにうつった牡蠣の味の濃さに目を見張る。グラタン、といえばグラタン皿のサイズを想像するであろうが、これはこのサイズの器(自分のこぶし1個はいらないくらい)で十分すぎるほど味わえるものだ。昔、ピエールマルコリーニで1個2200円のチョコレートケーキを注文したところ、むちゃくちゃちっちゃいドーム型の「どくさいスイッチ」が出てきて不審に思ったが、一口たべてその「サイズ感」の意味が分かった、という体験をした。今回も「それ」である。
さてここで「どちらも最高に美味しい!」と感想を終えることは簡単だ。でも本当の意味でシェフの料理に向き合うなら、「自分はそれぞれをどうとらえたのか。しいて言うならどちらの方が好きだ、という偏向はあるのか。あるとすればそれはこの料理の、そして自分の嗜好の何がそう感じさせるのか」まで突き詰めないといけないのではないか。めんどくせー客で申し訳ないが、そう考えてしまうのである。ちなみに自分はクラシックのほうが好きだった。

究極のビーフシチュー
言わずもがなである。とろっとろに煮込まれた肉(前回とはちがう部位を使っているらしいが、どこかは度忘れしてしまった)の上に、10キロの牛から2リットルというもはやエキスをかける。食べて30秒後には唇が油脂でくっつき、その繊細な皮膚を冬の乾燥とこの現代のいとしさと切なさとからも守ってくれる一品。味は…これまで覚えてきた、味に関する形容詞で表現することが困難。このシチューの味を自分の中で分解して解析していくつかの要素にバラすことができないのだ。ただ前回食べた時に「偉大なワインを飲んだ時に感じるストラクチャーと同じものを感じる。」メチャクチャデカい山を遠くから見てなお視界一面に広がる壮大さに圧倒されながら、しかしその山の頂上に降る雪の神秘的な空気を、人々の歴史が根付く裾野の広がりを、まるで間近で見ているように感じる、遠近感がバグっているのにそこに不安を感じるのではなく恍惚とする全能感、そういうものを感じたし、それは今回も同じであった。
この皿がこの店における分水嶺のひとつであるとのこと。うまくないと感じるわけがない。とその場の全員が口をそろえていったが、後で振り返ると思うところはあった。つまり、この皿を「大してうまくない」と評する者たちは、彼らのなかに「対照としての食経験の蓄積が足りない」ということを示すのではないか、と。かつて友人は「偉大なワインを理解するために今まで飲んできたワインすべてに価値があったと思う」と述べたことがあるが、「今まで味わってきたもの」がどれだけあるかは人それぞれである。
シェフは2品存在する一皿上でも、コース上でも、先述した「対照contrast」を意識するよう客に仕向けている(と解釈している)。そのように向き合うことが最終的に、「自分の望む料理」に至る過程になるからだ。この店は客が実験体となり、われわれは被験者でありながら自分のこれまでの蓄積から研がれたセンスをテストする必要にせまられる。

フランス産のフォアグラ
今回はフランスの鴨に合わせてフランスのフォアグラを、とのこと。
そして今回の輸入禁止直前に送られてきたものが、現地の人たちが食べるサイズでカットされていたものだったため、シェフが前回供したものとは厚みも横幅も違うものとなっている。したがって、このサイズのフォアグラを、こともあろうに半分に割って1ピースを一口で食えとのこと。なんという暴挙!食べた瞬間から頭の中を元気な鴨がよろこび庭駆け回る一方でヒトはこたつで丸くなってるヒマは1秒もないのである。前回は「大人のプリン」をイメージしたが今回は「クリーム」とのこと。この滑らかさと、このデカさでほおばるにもかかわらず一切嫌なしつこさがない質の良さは、巡り巡って「健全な生活がいかに重要か」を我々に説くようである。
「遠くに鴨がたべていたトウモロコシの香りを感じるでしょう」と言われたが、遠くと言わずいま感じる甘みはトウモロコシ由来のものなのか、と思えるくらい、脂には違いないのにしつこさが一切ない。「岐阜で育てている鴨は川で魚を食べているでしょう。雑食の鴨にはこの味は出ないですよ。」この鴨こそ、フランス料理において「テロワール」を感じさせる要素の一つなのだろう。逆に日本で育てられた鴨は、いくらフレンチ向けに育てようとしても、結局は「醤油と塩、かつおや昆布だしと合わせてはじめてポテンシャルを最大に発揮できる」ものになってしまうということなのかもしれない。

マダムビュルゴーシャラン鴨
これが第一部のメイン。
これほど、これほどまでに美しい肉料理がいまだかつてあったか。愚かな人間たちを抱きながら凍え行くこの汚れた地上に。
この肉の赤は窒息鴨として体にたたえられた血の色であり、決してすべての肉を凡庸に貶める日和った低温調理によるものではない。またナイフがすっと通るほどの柔らかさでありながら火の通りは均一、確実で、しかし血に火が通りすぎたときのあのくさいレバーのような香りは一切しない。皮目から、断面からしずかにたちのぼり、たしかな力でもって卓の上を支配してゆく、芳しい香り…ロンドンの霧がこの香りになれば住人は2度とその時間から抜け出せなくなるだろう。
火入れは「入れすぎてわずかに硬い」と「すこし生でぐにゃっとする」のいずれにも全く寄りかからない完ぺきなバランスで行われており、噛んだ感触はシルキーで、でも食べ応えは抜群である。
「付け合わせはいらないと思って」と、この皿がいただいているのはこの鴨肉のみである。かけられているソースは、よくある赤ワインソースや臓物を煮詰めたものではなく(ジビエのまねっこするなよしゃらくせえ、という店がたまにある)、ドライトマトを使った淡い色のスープ。「トマトのグルタミン酸(と肉のイノシン酸)との相乗効果があると思う。赤ワインソースって本当は難しい。」血の香りをたたえた肉に「これは私の血」である赤ワインをソースとして合わせようという定型を対照し、同じ赤色からまったく異なるベクトルのものを選ぶ、その透徹した合理性と実験姿勢に頭が下がる。頭を下げると見せかけて皿を見つめ一心に肉を食っている。
今回供された赤ワインにも説明があったが、ごめん、詳細は忘れた。今回はボジョレーではない、というところまでは聞いていた。それで気づいたら、私…鴨肉に、刃を…。

第二部は野菜からスタート。
それぞれに生・焼き・蒸しとちがった調理法を適用している。面倒すぎるだろ(褒めてる)。
「コムアラメゾン」のラタトゥイユは、すべての野菜が同じ程度の歯ごたえになるよう、おそらく火を通す時間をすべて別で調節し、口中の食感がなめらかで一体となってうまみを感じる、という構成だった。これは自分が持っている野菜メニューの対照値である。
この野菜盛りはそれぞれの野菜についてすこしずつ個性が楽しめる。時間が許すなら、それぞれの野菜の手入れを変えて何種類か食べてみたい。面白いのは皿の上の野菜たちは「スーパーに売っている、普段見かける」種類のものばかりであること。そして驚くべきは、それが普段自分の触れない形で、でもたしかな非日常的うまさを携えて目の前に鎮座していること。そこに「自分がこだわって栽培している」「生産者と何度も協議して」といった、料理人のエゴイズムはまったく提示されず、ただ野菜を出される。それでいい。それがいい。

オマールブルトン

凡人である自分が何も言う必要はない。最強。これが究極。語彙が吹っ飛ぶ。
後で種明かしされたが、この皿が実質「第二部のメイン」であった。絶対にうまい料理。
今回のオーダーでシェフは非常に苦心されたと思う。
「フレンチは海のものと土のものを合わせるのが原則なので」という足し算が理由で下に野菜やソースが添えられているが、このオマールで完結している。と説明された記憶があるが、例によってオマールのうまみで「もっていかれている」のであやふやである。どんな錬金術師やねん、もうすぐ全身鎧になるんか。
おそらくこれらの野菜は、もちろんおいしくはあるが、先のフォアグラの下に敷かれた「あまりおいしくないジャガイモ」同様、緩急をつけるための装置なのだろう。「おいしいものもあまりおいしくないものも出すようにしている」という衝撃のセリフは前回聞いた言葉だが、その目的はこのコース料理を、忘れられないショーとして成立させることにある。そしてこれは「連続sequence」にとって大切な要素である。コース料理の中で、また過去にたべた皿たちと対応し、それが現在そして未来へと連続する。「あのオマール」と我々がささやくとき、その香りがまざまざと目の前に立ち上り、断面からはちきれんばかりに盛り上がる身を幻視するために必要なものなのだ。

とうもろこしのスープ
ゆるしてくれ、もうこの最高のスープを言語化するチカラは残っていません。天国の食卓にある液体だ、とだけ言っておく。

真のラスボス、クロワゼ鴨
これは最初、面食らった。
先のシャランと違ってがっしりとしている、いやしすぎているといってもいい。もちろんナイフの通り具合は良い。皮の香りはシャランよりはっきりと香ばしい。しかしあまりに血の香りが濃い。そう、「火が入りすぎてレバーみたいな味がする」状態。ソースも濃い。
もちろんメインがこれ「だけ」であったなら、美味しかったねで終わると思うが、我々はさきにシャランとオマールを食べてしまっている。それに並ぶうまさとは思えない。
後でシェフも言っていたが、このコースでこれをたべて「うまい」と思える人間はその場にいるうちの半分だろう。

そして、その状況こそがこのコースの狙いだったのである。

曰く「おいしい料理は、記憶に残らない。おどろく料理は、記憶に残る。」
もはや「ただおいしいだけ」の皿は、事ここに至っては、出ないのだ。「食にかける熱量がすさまじい変態ども」とシェフに認識された時点で、われわれはシェフにとっての実験体となり、そしてここが大切なのだが、

我々は、シェフとともに食の未来へと続く皿を作り上げ、ともに歩んでゆく仲間となりえるのである。

おなじ調理をしてもクロワゼ鴨でシャランのあのシルキーさ、血のかぐわしい香りを超えるものを作ることは到底できない。ならばアプローチを変えて調理しよう。いわれてみれば当然の発想である。そしてこの皿ではジビエを目指したかったがこれが限界であったと。いや十分すぎるほど濃いですけど。
そうして、先に出たシャランとのあまりの違いに面食らったが、二口目冷静に食べてみると、この食べ応えと香りも相当うまいものであることに気づく。
かつて体験したクロワゼ鴨は、思い返せばやわらかで、甘みのつよい仕立てだった。付け合わせはルバーブのジャムだった。しかしそれではシャランにはかなわない。絶対に。
そして今後「あのクロワゼ鴨」と言われたときに想起するのは、今回たべた「インパクトの強い、濃い味のした方」であろう。今後食べるクロワゼ鴨との比較対象として、記憶に連続して出現するのは、今回の方であろう。

誰が食べてもおいしい皿はオマールで終わり。
このクロワゼ鴨は「未来へと続く」皿である。
それは可能性を探っていくための一品ということ。そのために「万人にとってうまい皿」であることを切り離してでも出さねばならない皿がある。
これは並みのレストランではできない。彼らは「おいしい」と評価されることのみにこだわり、しがみついてしまう。そんな彼らを責めることは、同業でない我々にはできない。評価が落ちることは売り上げに直結するからだ。
でももうすこし俯瞰してみると、よりうまい皿を求めるためには試行錯誤が必要であることはわかる。そしてそのための食材は限られていることも。食材を調達するには多大な努力が必要なことも。シェフ自身が厨房に立つ時間は有限であり、我々がシェフの料理を食べられる機会もまた有限であることも。本当は、我々は、毎回、自分自身の経験と対照し、学んだ歴史を振り返り、過去と現在の皿の連続性から、目の前の皿の未来を感じていかなければならない。シェフ自身でさえも、いやシェフ自身が最もそれを繰り返さなければならない。
ただ、ひたすらに考え続けて。
ひとりで。
だからこそシェフは、彼に全力で伴走できるものたちを必要としている。そう思わずにはいられない。
彼が作り、そして我々が食べ続ける皿が、
千年の過去と未来をつなぐことを、ほのかに夢見て。

すべての皿が至高だった。
その振り幅、抱いている可能性も含めて。

ただ
よき友へ
あなたがここにいないことだけが悔しかった。

わたしからあなたへ、
できるのはここまで。

いつかまた、この場所で。


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