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地名「天竺老婆」の由来に関する現地調査の結果報告
2024年5月に行った、岩手県奥州市江刺区稲瀬天竺老婆での現地調査の報告を時系列順に書きとめる。
(個人名を伏せるために読みづらくなっている部位があります)
天竺老婆という地区名の由来を、現地資料およびフィールドワークにて調査した。
【初日】
1. 現地の散策
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まずは天竺老婆の外周をぐるりと回ってみる。
電信柱に記された地名は「東の袋(とうのたい)」「宝禄」という名が見受けられるが、いずれも道路を挟んだ対面側であり、天竺老婆側の電信柱には地名表記がない。
天竺老婆の西側、道路向かいに石碑群がある。
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石碑群すべての裏面を確認したが天竺老婆に関する表記は認められない。
天竺老婆内西側に社があった。
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ここでも地名に関する発見はなかった。
また、家屋の表札も見られる限り確認したが特に気になるものはなかった。
2. 江刺市立図書館へ
図書館では郷土資料『稲瀬郷土誌』の中にこのような記述を見つけた。
四 宝禄
宝禄は、字宝禄、字関根、字天竺老婆、字二丁目、字百連寺(岩谷堂)で構成されており、いつの頃から「宝禄」と呼ぶようになったかは定かではないが、字宝禄の範囲が最も広いところから、そう呼ぶようになったのではないかと思われる。
(中略)
字天竺老婆に「てんじくば」「ばんがみ」の屋号があるが、稲瀬郷土教育資料によると『天竺ハンヤ(綿の意味)が訛って『てんじくば』となり、そのそばに位置する『綿(ばん)神様の祭主』から名付けられたものらしい。
(後略)
ここでいう屋号とは土地や屋敷の通称のことである。
屋号の「てんじくば」と「ばんがみ」は漢字表記で「天竺老婆」と「婆神」である。創立年代も記されており、それぞれ慶応年代、慶応後期とある。
うか
同書第一章「方言」を精査したが、地名の由来に繋がるような方言は見当たらなかった。
また、『稲瀬郷土教育資料』はここの蔵書にはなかった。
前述の金華山と刻まれた石碑の情報も得た。
天保10年巳亥年(1839年)10月2日、村内安全、五穀豊穣を祈願し建立された。高さが一丈もあり石碑に刻まれた左文字の画数が多いのでも有名である。現在は宝禄部落の氏神として祀られている。
所在地は「字二丁目」。
図書館には最古では江戸時代の周辺地図もあったが、字の表記はないものであった。
【2日目】
1. 再び現地散策
婆神の由来である「綿の神の祭主」に因む史跡などがないか天竺老婆の近隣を含めて入念に散策した。
現地は一帯が平坦な田畑のため非常に見渡しが良い。
天竺老婆南側の道路向かい、小高くなった場所に複数の岩石群があった。
ロープが張ってあり私有地のようで精査はできなかった。
また、前述の『江刺の史跡』内にこの場所の記載はなかった。
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ソーラー施設が隣接するため工事の名残かもしれない。
(2014.6.21 補足)
地元に酷似した場所があった。
![](https://assets.st-note.com/img/1718976936264-BgSHJs4s7c.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1718977019451-Z0SlCgNqSi.jpg?width=1200)
ソーラー敷設のために掘り起こした岩で間違いなさそうだ。
散策を続けると用水路の整備をしている男性を見かけたので声をかけた。地名の由来を尋ねてみたが、自分の代で移住したため分からないとのことだった。
続いて、畑でアスパラガスをもいでいる老婦人に声をかける。ご主人なら詳しいかもとのことで、天竺老婆にあるご自宅でお話を聞かせて頂けることになった。
伺ったお話をまとめると、
天竺老婆の由来は「天竺ハンヤ」。天竺ハンヤが訛り天竺老婆となった。つまり「ハンヤ」が「ろうば」に転じたが、なぜそう転じたのかは分からないとのこと。(確認したが「ハンヤ」から直接「老婆」に転じ、間に「てんじくば」は挟まってないとのこと)
「天竺ハンヤ」はインドの綿の意味。
多賀城や増長寺?双林寺?(上手く聞き取れず)建造のため現在の大阪や京都などから瓦職人が移住した。その際にインド伝来の綿の栽培が当地の蝦夷(えみし)の人達の産業(大和朝廷への献上品)として伝えられた。瓦の運搬には近隣を流れる北上川の水運が使われた。
地名としての読みは「天竺老婆→てんじくろうば」で間違いない。「てんじくば」という読み方はよく分からない。(確認したが屋す号としても呼んだことはないとのこと)
屋号として「婆神」と呼ばれる家はある。
婆神の由来は「綿の神様」だが、祭司なのか祀る場所なのかは不明。地名としては残っていないしはっきりした場所も分からない。これは北上川が度々氾濫を起こし、遺跡遺構は全く残っていないため。
現在の婆神さんも祭司や宮司などではない。
ご老人のお名前はK池姓であり、散策中に同姓の表札をよく見かけたことを伝えると、九州からの移住者の家系であるとのこと。(後に稲瀬郷土誌のコピーを見直したところ「婆神さん」もK池姓であった)。
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別当も改めて探索したが特に何も見当たらなかった。
2. えさし郷土文化館へ
天竺老婆に関して記述した資料は見つからなかった。
『江刺市史第5巻 考古資料篇 原始・古代・中世』にて多賀城建築の年代を西暦724年と確認した。綿作の伝来に関する記載はなかった。
最後に、今回の散策中に道祖神・塞の神や庚申塔が見かけられなかった事が印象的であった。
以上が今回のフィールドワークで得た情報である。
【補遺】
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「天竺老婆」という地名の発生は724年頃から治水事業が本格化する江戸時代の間ということになる。
以下、気になったことをインターネット検索した結果。
[ハンヤ]
・鹿児島のハンヤ祭
・パンヤ綿、木綿(きわた)
・枕などの詰め物に使われる木綿のことを「パンヤ」「パンヤ綿」と呼ぶ。これはカポックという樹木の繊維のことで、カポックは「パンヤ」「パンヤノキ」とも呼ばれる。パンヤはポルトガル語。同科の別種であるキワタとしばしば混同され、インドワタノキと呼ばれたり、攀枝花がパンヤと訳されたりする
植物学上の分類や品種の混同はあるようだが、パンヤとは単純に「樹木から採った綿状の物」と考えていいようだ。
[ひらがな/カタカナ/いつから]
・ひらがなとカタカナの発生は9世紀とされている
[ぱぴぷぺぽ/いつから]
・「ぱぴぷぺぽ」と表記するようになったのは江戸時代から
なぜ「日本」は「ニッポン」と「ニホン」という2つの読み方をするのでしょう? 平安時代の初期まで、日本語には「ハヒフヘホ」という発音はなく、「パピプペポ」と発音していました。なぜそれがわかるかといえば、当時は、この音を万葉仮名で「波比富部保」と書いていました。それを当時の中国の文献に当てはめて発音を調べると、「パピプペポ」としか読めないのです。 これが11世紀頃になると「ファフィフフェフォ」という発音になります。そして現在のような「ハヒフヘホ」という音になったのは江戸時代です。こうした発音の変化は世界中で見られ、「グリムの法則」と呼ばれます。つまり「日本」の読み方は、「ニッポン」「ニフォン」を経て「ニホン」に変化したのです。そして古い音も残り、新しい音も受け入れられたので、読み方が混在しているのです。
つまり天竺ハンヤはそもそも「天竺パンヤ」と発声されていたはずだ。なぜ「ニッポン」のように残らなかったのか。
さらに言うと朝廷への献上品として普及した綿花栽培が現在の天竺老婆地区だけで行われていたわけがない。一周歩くのに30分程度の広さだ。
そして、ハンヤ、九州から移住したK池姓の人達、鹿児島のハンヤ祭。
[ハンヤ祭]
・ハンヤ節(鹿児島の民謡)
ハンヤ節は奄美六調がそのルーツと考えられています。
奄美六調が海路によりお座敷歌として、 九州の港町に伝わってハンヤ節となり、その後北前船により地域特性を加えながら各港町に伝わり 日本海を北上し、津軽海峡を経て太平洋を南下し、瀬戸内海まで達しました。
このように鹿児島をルーツとする「ハンヤ節」が全国各地に伝わり、今も歌い踊られています。また、「ハンヤ」は、ハンエイ(繁栄)を語源にしているとも言われています。
[K池/姓/由来]
K池とK地のルーツは、肥後国(現在の熊本県菊池市)で、平安時代に肥後国菊池郡の武士がK池を名乗ったのが始まりである。
K池氏は武力に優れ大いに活躍した。南北朝時代において、後醍醐天皇の南朝に味方し、東北地方まで派遣されて戦闘に参加しましたが、結局敗北してしまう。その時、東北地方各地に散ったK池氏の一部が、K地に変えたと言われている。
理由は、「このままK池を名乗っていては敵から追われ命が危ない」と感じ、「池」を「地」に変えK地にしたとされている。
なお、「地」の「つちへん」を武士の「士」に見立て、今は農民になり身を潜めているが、やがて再び「士(武士)」に「也(な)」り活躍するとの意味が込められている。
現 熊本県である肥後国K池郡が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる藤原隆家流と称す。
日本列島の西側に多くみられる。
語源は「K」は岫(くき)のことで、洞や崖になった谷の意味。「池」は池、地と考えられる。関連姓にK地がある。
家紋は並び鷹の羽、日足。岩手県、茨城県に多くみられる。
この地の婆神さんを含むK池姓は『稲瀬郷土誌』によるとどの家の家紋も「丸に並び鷹の羽」である。
K地姓が一戸のみあるが、こちらの家紋は「丸に違い(たがい)鷹の羽」であり、別の家系であることが伺える。
Y重樫姓(屋号天竺老婆)は、
現岩手県南東部と北西部を除く地域である陸中が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)為義流和賀氏族。
近年、岩手県に多数みられる。
ただ、こちらの家紋は「丸に三つ柏」で、検索結果に困惑したのでここには記さない。
(2024.6.21 補足)
いくつかの文献で菊池氏の移住は天正年間(1573年から1592年まで)とある。
「天正中菊池薩摩守恒一浪々の身を以て當村の地に来り土着す。」
以上です。
【おまけ・我(が)】