見出し画像

ACPの選択肢その①


今回はシリーズ化していきたいACPの過程として考える必要があると個人的に思っているものです。

なぜ、こんなことを考えたか。

派遣看護師として働いていると、よく老人ホームで働くことがあります。

そのご利用者様、お客様を見ていると、この選択は自分で選んだ選択肢なんだろうか?

もしくはご家族さんが望んだ形なんだろうか?
↑望んだのは、ご本人の意思を継いだもの/ご家族の意思が強く出たものの2種類があると思っているが、、、



誰に/何に生かされているのか。



その選択を自分に課せられた時。

もしくは大切な人ができた時に、どういう過程を踏んでいけばいいのか。


考えはいつでも変わる。

その前提を踏まえた上で、今の私の考えを記したいと思う。

その最初のシリーズとして、

「何を食べるか」とその周辺について書いていきたいと思う。


この界隈でよく話題に上がるのが、「胃瘻」問題。

胃瘻は自分で食事を摂取していない状態である。

これは自分の力で生きていない、ほかの人の力で生かされている状態だと自分では思う。


こうなってくると。


そもそも胃瘻を作ってしまうと、
その先は経管栄養と言って、ドロドロの液体になった栄養成分が体に流されることになるのだ。

看護師として働いてきたからわかることだが、
日本にある経管栄養の大体は甘い臭いのものだ。(海外のは分からんが)
だから、摂取することで、体臭、口臭が甘くなるし、便も甘い臭気になることがほとんどだ。

自分は食べたくもないのに、その栄養を入れられて。
普通の生活を送ることができていないのに、経管栄養の沼に勝手に落とし入れられているような気がして。

経管栄養に生かされている。

患者さんを利用者さんをお客様を見ていると、
その言葉が念頭にくる。

そうなると、、。

日本で“安楽死”の考え方はまだ受け入れられていないが、その選択肢もありなのかもと思ってしまうところはある。





なんでも食べられる状態だったら、、



もし、ピンピンコロリで生きれられた場合、
最期、なんでも食べられる状態だとしたら、

自分だったら何を食べたいだろうか。


肉?
アイスクリーム?

鰻重を口に頬張りたい。

いや、ラーメンをずるずるとすすりたいかもしれない。

そんなことも考えたりする。

自分の人生だから、最期くらい、食べたいもの食べさしてよ。

予防医療というか、俯瞰してみると、
若い頃に味覚がちゃんと生きているうちに美味しい思い出があるといいなとも思う。


病院で見るようなペースト食は私だったら食べたくない。

誤嚥性肺炎になったっていいから、それが死因でもいいから。

と今は思う。

自分の考えはまずまずこんな感じ。




他者優先か自分優先か



次に、自分の大切な人がそういう選択肢を取らざるを得なかった時に、、

自分ならどうするか。


まず、第一に相手の考えを聞き、尊重すると思う。

もしかしたら、相手の考えが「どんな状態でも生きたい」という選択時なので有れば、
尊重するとは思う。

尊重した上で、自分の考え、医療従事者として働いてきた意見を聞いてもらった上で、
その先を生きて欲しいかな。



でも、この考えってあくまでも個人的な考えなんだけれども、

ACPの考えを普及していきたい個人としては、

大切な人が、この記事を見ているみんなであって欲しいと思うし、

これから関わる皆さんであって欲しいなと思う。


まだまだ未熟な身ですが、どうぞよろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?