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和田伊吹という男

こんにちは。和田伊吹です。
note始めました。ずっとやりたいなと思ってたけど、何故か踏み出せず。最近色々あったので始めました。

まずは生い立ち、、?
2001年8月21日東京都町田市出身
神奈川ではないですよ。れっきとした東京都民です

姉の影響で幼少期からバレーボールに勤しんでいました。高校まで続けましたが、上手くもなかったしバレーボールを長年やっていたというだけでイキってしまい顧問と衝突して退部し(ふっ、青いな。)、そのタイミングでサッカーに出会う。そこでマリノスに出会いサッカーにどハマり。週末は日産スタジアムに足繁く通う日々を送る。
頭が猛烈に不出来だった僕は大学に行っても大したことない人生を送れないと思い、大学は諦め、謎に見つけたJAPANサッカーカレッジ(以下CUPS)という新潟の専門学校に通った。初めての一人暮らしも新潟。
CUPSで様々なことを勉強し、J3藤枝MYFCにインターンの末入団。1年目にしてJ2昇格。
そしてJ2のシーズンも残り7節。

というのが今までの人生。ざっとね。

ここからは人生の細部まで書き記していく。

生まれから小学生時代

先程も強烈に述べた通り東京都町田市出身。
町田市民は東京へのこだわりが以上に強く、他所者に「町田って神奈川じゃ〜ん」とソフトにいじられただけで何人か殺めてしまうほどである。

そんな大都会東京都町田市で、当時横浜にあるお月様形のホテルで働いていた両親の元生まれる。3歳年上の姉が1人。
幼少期から天真爛漫で、ぶっちゃけジャニーズくらいイケメンだった。(異論は認めない)

ん、、今見るとあまり可愛くもないですね。
小さい頃から甘やかされて育った僕は、自分が不細工である可能性を頭から排除し、自己肯定感爆高で成長を続けた。

姉の影響で3歳からバレーボールを始める。
当時はただただ楽しいというだけでバレーボールをやっていた。(後に自分を苦しめることになるとも知らずに。

小学生にもなると勉強も対してできず、親とプールに行こうなら泳がず可愛いお姉さんばかり見つめる煩悩まみれの健康クソガキに育った。
小学生の時は煩悩クソガキながらもなんとか委員長を務めたり、生徒会副会長もやっていた。
こんなに鮮明に覚えているというのが、小学生時代が自分の人生のピークなのを物語っているよね。は〜。

保育園時代と小学生6年間、無論バレーボールは続けた。身長はデカい方だったので、まだバレーボールは楽しくやれていた。
と思いきや、人生初めての試練。
コーチが体罰コーチだったのである。まだ体罰が社会問題になる前。試合の時、耳に洗濯バサミをつけられ、ジャンプやレシーブの度揺れる耳に泣きながら試合してました。あと自分たちのチームが試合ない時は上の観客席からデカい声でカエルの歌歌わされたり。
今考えるとゾッとしますね。本当にその時はコーチが怖くて従うしかなかった。今でも鮮明に思い出すくらい辛かった記憶。
今のこの少し捻くれた性格もその時の影響かな。(何か言い訳を探したいだけ笑)

話が逸れましたがそんな幼少期でした。

中学生時代

そのまま隣の中学校に進学。
先に言うと、ここで自分の人生を大きく変えてくれた友達2人(自分で言うとちょっぴり恥ずかしいね。)に出会う。

ここでもバレーボール部に入部。
小学生からクラブチームでやっていたというイキリ文句をぶら下げて部活をしていた。が、みんな急激に身長が伸び始め、小学生の時にある程度伸びていた自分はあっという間に抜かされた。
そして身長と比例するように技術もぐんぐん伸びていたみんなに勝てなくなる不安もちょっぴり芽生えた。
そして上手いと思っていたバレーボールも非凡な才能があるわけではなく年数が長いからある程度無難にやれていただけだと気づき絶望。友達との遊びににうつつ抜かして部活に行かない日も増えた。

学力の方もお察しの通りカスofのカスで、授業は寝る以外の選択肢がなかった。

部活も勉学も中途半端(ていうか中途半端って言葉も自分には不相応なくらい何もできてない威勢だけはいいカス中学生でした)

そんな時仲良くしてくれたた友達2人に日産スタジアムに誘われる。
バレーボールしか知らなかったので、日産スタジアムが何かすら知らずに向かった。
ついた先はとりあえずお祭り。みんな同じユニフォームを着ていてそこら辺に沢山屋台があった。
日々の生活に飽き飽きしていたカス中学生にはこの現実とかけ離れた空間に居場所を求めるように一気に惹き込まれた。

そしてスタジアムに入りコンコースを抜けると青々とした芝生、大声援の応援。そして未知のサッカー。
なにも知らぬままゴール裏(応援が1番過激なガチゾーン)にブチ込まれた。
周りを見渡せば大きな声をだしている大人ばかり。
この応援が一気に好きになり、マリノスが好きになった。最初って多分サッカーが好きになったというより、みんなででかい声だして騒ぐのが楽しかった記憶。ルールなんてまじ分からないしね。

中学生で出来た唯一の趣味マリノス観戦。
週末は足繁く日産スタジアムに3人で向かうルーティンが出来た。
一時期俺が行くとマリノスが勝てないと言われ少し疎遠になったよね。笑(今考えればおかしすぎる理論だけど当時は本気でそれを信じて萎えてた)

そんなわけでより一層勉強なんてする訳もなくなり、高校受験も全く頭から排除してた。
そしていよいよ受験シーズン

絶望した。行ける高校はないと塾の先生に告げられた。焦った。絶望した(2回目)3年生の8月

その時から塾をガチの進学塾に変えて、1日14時間勉強の始まり。
良く自分でもやってたと思うけど、本当にその時期は勉強が好きだった。
国立とか、八王子東とか狛江とか、頭いい高校の人と同じ時間同じ量勉強してた。(質は、、。)

そんなこんなでギリ東京都最底辺ガチムチ体育高校都立山﨑高校に4月から通うことになる。
ちなみに受験期は、朝、昼、おやつ、夕食、夜食と完全デブ期を過ごしていたので、体重は78キロまで増加した。サムネイルの写真も高校1年の学生証。
ムチムチ、、。キャワ。

高校時代

夢と希望を胸にスライディング入学した都立山﨑高校
姉も同じ高校だったので、ある程度は知ったつもりでいたが、入学したらガチの地獄体育系学校だったのである。

新入生が体育祭までの毎日、山高体操なるオリジナルの体操を覚えさせられた。
ぬっる〜い気持ちで入った高校を、当時の自分は死ぬほど後悔するのである。毎朝体育館に1年生全員集合し、先輩に怒鳴られながら朝の授業までの時間をクソ体操をしながら過ごした。
思い出したくない程である。
話がズレるため(思い出したくないため)山高体操の話はここまでにするとして。

思い出せば無限に書けるほど濃い高校生活だったので、簡潔に終わることにします。

和田、爆痩せ

受験期で78キロまで増やした体重をバレーボール部と食事制限のおかげで64キロまで減らした
78キロ時代の影響か、今尿酸値がバカほど高い。将来痛風確定ルートである。
しかも尿酸値が高くなる原因のビールや魚卵を一切摂取していないのです。ああ、試練すぎな。

金澤空を始めとする友達との出会い

和田の人生を語る上で必ず飛び出してくる男金澤。
高校時代、ウイイレアプリを3年間で1200試合した男。こいつはとにかく面白すぎるし、面白すぎる。
金澤や、その時仲良くしてくれた友達とは帰省したら年末必ず会うほど大好きなのです。

和田大振られ

山高のマドンナ的存在と和田は謎に付き合えたのだが、新潟に行く直前に振られる。
新潟の田舎さ、そして誰とも喋れない環境にその影響が相まって新潟時代の初期には抜け毛と大量のフケに悩まされる。半ば鬱状態で死にかけ。
ああ、あの頃は若かったZE⭐️と思うぜ。

ってな感じで高校生時代を締めくくる。

ちなみに、3年生は遅刻回数250回というクソ逆名誉をし、担任のまなちゃんに迷惑かけまくり、三者面談で親を泣かせるという本当に、、、、頭抱えるレベルでした。
こんな俺にもお金を出してくれる親の為にも、頑張ってくれてる先生の為にも一生懸命やらないとと改心して今の僕がいます。
自分の意思で行ったから当たり前だけど専門では無遅刻無欠席でした

CUPS時代

人生で1番楽しかったと言っても過言ではない新潟時代
たくさんの友達とも出会い、そしてそして1番大切な杏波ちゃんとも出会った時でもあります。

初めての一人暮らし。

引っ越す日、新潟駅まで新幹線で向かい、電車で最寄駅まで行き、そこからバスで家の近くまで向かう。何の変哲もない行動のはずだが当時の自分には全てショッキング過ぎました。
4両編成という見たこともないような短い電車、改札がない無人駅、訳わからないくらいボロボロのバス、降りたら街灯すら見当たらない田舎。
ちなみに新潟県北蒲原郡聖籠町である。
なに、住所に郡と町って。本当におかしいでしょう。

心細い中1人で家まで向かい、家に入った時の安心感は本当に今でも忘れないな。(事前に引越しの準備してて親から貰ったものとか予め部屋にあった)

そこから入学までの日々、サッカーの学校なのに俺未経験だし初心者だしな…上手くやっていけるだろうかという一抹の不安が頭によぎる。

そして数日間の自宅待機期間を経て遂に入学、学校へ参る
サッカーうまそうな人たちしかいない、未経験の人なんて尚更いない、こんな中でどう生き延びればいいかと。一抹の不安が絶望へと無事変化。死ぬ未来しか見えなかった。

勢いだけで進んできたので全く知らないサッカー、ルールも対して分からないし何が上手いかもわからない。本気でゼロからのスタートでした。

皆んなに負けているのが分かっていても怠惰になってしまうのが和田という人間。
皆んなが頑張っているのを見てたけど正直パッとせず。あまりいい学生では無かったです。

金もねえ、車もねえ学生1年目。
バイトもしてなかったし、常に金欠

米、パスタ、冷凍うどん。お金の使わないご飯の食べ方はここで心得た

2年間色々底辺みたいな暮らしだったけど、週末は友達の家で朝までfifa大会をしたり、新潟市に遊びに行ったり、車40分走らせて二郎ラーメン食べに行ったり。
新潟生活2年目には杏波ちゃんとも出会い、忘れられない新潟生活になりました。

新潟、最高の場所です。いつでも行きたい!

MYFC時代

絶対にプロクラブには行けるわけない位のカス学生だったのに、何故か藤枝MYFCという当時J3に所属していたクラブにインターンに行かせて頂いた。

そこで、どうせ俺は契約されないしまあいい勉強だと思って楽しんで頑張るか〜という気持ちで(今考えたらやべえ奴だな。)1週間チームに帯同させて頂きました。
そこでサッカー分かんねえしとりあえず元気に動き回るか〜と思い全て爆速全力疾走で仕事した(今だったらありえないね)
インターンも終わり、東京の実家を経由して新潟戻るか〜と思い東京駅に向かっていると一本の電話。

出てみると学校の先生でMYFCがお前と契約したいと。



???

有頂天 of the year

ってな感じでサッカーのプロクラブマネージャーとして働けることになりました。

1年目は毎日毎日とにかく楽しくて。
大変な仕事も気持ちで乗り切りました。
なんと1年目には昇格も経験できて最高の年でした。

2年目、、はもう終わりかけていますね!

っていう感じが和田伊吹という男の人生ここまででした!(雑な締め方)
このnote書くのにリアル2週間かかっています。
(怠惰なだけ)

書いてみると色々考えの整理になり
色んなことを思い出す良い機会でした

また気持ちが乗ったら書くので、みてくれると嬉しいです!

ありがとうございました!




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