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無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記/山本文緒 ★★★



「2021年4月、私は突然膵臓癌と診断され、そのとき既にステージは4bだった。治療法はなく、抗がん剤で進行を遅らせることしか手立てはなかった。
 昔と違って副作用は軽くなっていると聞いて臨んだ抗がん剤治療は地獄だった。がんで死ぬより先に抗がん剤で死んでしまうと思ったほどだ。医師やカウンセラー、そして夫と話し合い、私は緩和ケアに進むことを決めた。」

 衝撃的な書き出しに息を飲む。これは創作ではなく、作者が直面した現実を、あるがままに書いた文章なのだ。

 宣告を受けて途方に暮れながらも、上手に死ねますように、と淡々と書くこの作家の勁さに驚く。

 そこから始まる闘病の日々が書かれているのだが、単なる闘病記ではなく、作者自身はこれを逃病記と表現している。消えていく自分の生命の焔を意識しながら綴られていく文章のさりげなさ、自然さ。突然抱えた病は、もはや立ち向かう相手ではない。しかし逃げている感じもない。覚悟でも諦念でもない。そこにあるのは、ただひたすらに自分のありのままを書き残そうとしている作家の姿。命を削って書いている、というような悲愴感はほとんど無い。読みたい本、漫画を読み、感想を綴る。淡いユーモアさえ漂っている。自分について「承認欲求」という単語を使っていることが印象的だった。死の宣告を受けたら次はそれをテーマに何か書かずにはいられない。或いはこれが作家の業というものか。

 残された少ない日々、作家は断捨離に励み、会いたい人と会う。

 何としても出したい最後の短編集のアンソロジーに入れるために書いていた作品を、これを遺作にするには不出来だと収録を断念するくだりには、作家としての断固とした矜持を感じた。
 また、温めていた新作のアイデア二つを、もう書くことは出来ないから、小説書きたい人、このネタ欲しかったらご自由にどうぞ、みたいにあっさり公開している。
 残りの日数をカウントして、もう、これもあれも、生きているうちにはできないというようなことを、さらりと書く作者。彼女を支えている不思議な力はいったい何なんだろう。

 やがて手書きもできなくなり、音声入力という形で続けられた一番最後の日記にご主人のことが出てくる。そこまでは「夫」と表記していたが、ここで作家は突如「王子」と最愛の夫への呼び名を出している。意識が混濁していることをうかがわせる、幻想的で不思議な文章だ。恋愛をテーマにした小説を追求してきたこの作家の白鳥の歌がここに完結していて、涙が溢れてしまった。

 上手に死ねますように、という作者の願いは、十分すぎるくらい見事に達成されていると思う。
 闘病記らしからぬタイトルの意味は、一読すればすぐにわかる。

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