東野圭吾「クスノキの番人」から想起した事
巨木信仰はあちこちにある。過去に訪れた事のある屋久島の樹齢7000年とも言われる縄文杉は、木と言うよりもとてつもなく巨大なオブジェだった。ガイドに先導され行き着いた森の奥、老いた巨大な塊は朽ちながら生きていた。瑞々しい生命力とも違う荘厳な何かの気配が、辺り一帯に漂っていた。それでいて、大き過ぎて自らを持て余すような不恰好な立ち姿が、可愛らしくも見えた。高温多湿が涵養する森は、明るい緑の苔が岩や倒木を覆い、杉、ブナ、すべすべの木肌を晒す姫沙羅などが繁茂していた。また、いつでも通える地元の低山にも巨杉の森があり、大木の樹洞を覗いてみたり、幹周りを手を繋いで囲んで、その太さに歓声を上げたりした事もある。
木は古くから人の念をずうっと聞いてきたのかも知れない。私達は手を合わせる時、敬虔で純粋な気持ちになる。人に対してそうはなれなくても、人智を超えた存在になら畏れを抱きこうべを垂れる。山もそうだ。今まで登って来た殆どの山に、標高に関わらず頂には祠があった。山も信仰の対象であり、修験の場だったのだ。
地方のどこか忘れ去られてしまった神社に、祈念の習わしを伝えるクスノキがある。その洞に入り懐かしい人の事を思い出して、縁に感謝し、今の立ち位置を再確認するような時間を持つのだ。クスノキの番人に予約を入れて。
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