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理解できなくても納得したい。はっきりさせずにあいまいにしておきたい。

納得できないという思いによく振り回されている。やればすぐ終わることで、すぐやった方がいいと分かっていても、なかなか体が動かない。遊びや面白そうなことはすぐその場で動けるというのに。そこには疲れているとか、面倒だとか、やらなくてもしばらく困ることはないとか、いろいろ理由はあるのだけど、どうもそれだけの話ではないような気がしてきた。きっとこれは自己矛盾の話だ。

別になくて困らないなら納得なんかなくてもいいのだけれど、毎度のようになかなか動けないでいる自分をふむふむと眺めていると、自分の中の葛藤や不安が浮き出てくる。よく巷の書籍には、ぐずぐずしている私をキッパリ治す方法というようなことが書いてある。私が求めているものはそういうものではない。ぐずぐずしている私を治して欲しいわけではない。それを切り捨てるのではなく、そこにある私の不安を救いたいのだ。どうやら自分は割り切るということが苦手らしい。

仕事で頼まれた仕事が、会社や顧客や社会のためになるのか疑問があってもそれを改善する提案ができなかったりする。家に帰って家事をおろそかにしているとき、自分を大切にしていないという事実を突きつけられたりする。こういうときだ。私の身体が動かなくなるのは、こうしたい私とそうできない私が対立しているときだ。

納得できないという不安は私にいろいろなことを気づかせてくれる。ああ、私は本当はあの時こうしたかったんだな、やりたいと思っていたけれど実は嫌なこともあったんだな、と気づく。納得しないことを続けるということがなんだかアクセルとブレーキを両方踏み続けるような自分をすり減らしていることに気づく。別にどちらもあってもいい、ただ気づくというだけで自分の中の矛盾が和らぐ。矛盾は排除ではなく、許容されたがっている。

自分は昔から頭でっかちな性格だった。それは理解することよりむしろ、理解を通して納得を得るためだったのだと思う。最近納得感とは何かをよく考えている。直感は早いが長続きしない。理解はできたころにはもう遅すぎる。別に理解する前に納得があってもいいじゃないか。理解はそのうち追い付く。今できるとかできないとかはっきりさせずに、なんとなくあいまいにして、やりたいことをできるだけ、ちょっとずつやっていけばいいかなと、ぼんやりと思っている。

※この1か月あったことを話す場があって、最近のマイテーマを話そうと思って話しそびれたことを文章にしました。

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