『日月時男のひきこもり日記』の推理1 ——『日月時男』は小説——

最初に結論

時男=時士郎」であると考えています。

また、時男は「彼女」(この記事では脳を引き継いでいるという杏や伊智子と呼ばれる女性をこう呼ぶとします)と同じく脳を引き継ぎ続けている存在であると考えています。

時男=時士郎はいわゆる「偽時男」の兄弟であり父親であるとも。この点、後述します。

この記事の説明

2007年から2008年にかけて渡辺浩弐さんによって連載されていた『日月時男のひきこもり日記』の推理考察記事です(リンク先消失済み)。

過日、『日月時男のひきこもり日記』を考えるブログさんを久しぶりに見たら、新しい記事が公開されているのを発見しました(正確には昔読んでいたことを忘れていて、新記事として読んだのかもしれません)。

それに刺激を受けて色々考えているうちに、ある程度納得できそうな組み立てができました。いつか誰かの役に立てばと思いここに記しておきます。

この記事(に続く記事)では渡辺浩弐さんの『死ぬのがこわくなくなる話』(書籍 Togetterまとめ)を参照する予定ですので、こちらを未読の方はご承知の上、読み進めてください。

ただ、連載中途で投げ掛けられた、ヒント=残った謎を解明するのが主題ではありません。『日月時男のひきこもり日記』はこういう内容の物語になる予定だったのではという方面の考察になります。

今のわたしたちなら、理解できるはずです。

『日月時男のひきこもり日記』は小説である

まず、最初に確認しておくことがあります。『日月時男のひきこもり日記』は小説です。

何を当たり前のことを、と言われるかもしれません。しかし、多くの読者がここを読み間違えていたように考えています。

虚構を現実と錯覚させるのは、渡辺浩弐さんの得意とする作風のひとつでもあります。

『日月時男』は我々=読者の世界においてブログが用意され、そのブログ上で物語が展開されました。そのため、「渡辺浩弐が書いた作品であることはもちろんなのだが、我々の世界で現実に起こったこととして推理をしなくてはならない」と考える人が主流でした。

この考えは捨ててしまいましょう。渡辺浩弐が書いた作品であることはもちろん正しいです。それと同時に日月時男が書いた作品であるとも考えましょう。

  • 登場人物としての日月時男や、偽時男がいる物語層

  • 物語の作者としての日月時男や、推理している読者=我々がいる中間層

  • 物語の作者である日月時男を創作した渡辺浩弐や、物語であると認識している読者=我々がいるメタ層

大雑把にいうと『日月時男』を取り巻く環境はこの三層に別れています。

「日月時男」が物語層と中間層にいるのが紛らわしいですが、推理小説で作者の名前と主人公の名前が同一である作品は多く存在しています。それらの作品と同じ構成だと考えてください。その上で中間層の日月時男が「読者への挑戦状」を差し出してきているわけです。

「物語層」に我々読者が本当にいると考えているならば、我々はブログを読んで推理なんかしていられるわけないんです。さっさと警察に通報しましょう。でも、誰一人として通報した方はいないですよね。

自分自身が「中間層」や「メタ層」のどちらにも存在するとしながら、その上で『日月時男』を楽しんでいるのが我々読者です。

この考えの副産物もいくつか存在します。

  • 現実世界ではあり得ないことも、物語のなかでならばあり得るよねと考えられるようになる

  • 序盤に時男から届いたメールをなぜ我々=読者が読めていたかが解決する

前者が解決してくれるものとしては、一例をあげると、現実には交合機械ってちょっとあり得なそうだけどどう解釈したらいいのってものがあります。

これも「そういう物語設定なので、この物語上では存在します」といえるようになります。

後者は推理している人たちを悩ませていた大きな要素ですが、これも解決。我々は「読者」だからです。

この『日月時男』=小説説を導入しても構わないとする傍証も存在します。

  • 偽時男は「時男の正体とは!?」の記事を読んでいなかった

  • ヒントに「時男からのメールをなぜ読者が読めたのか」が入っていなかった

前者。第一部が終わり公開されたあの記事。もし偽時男があれを読んでいたなら「なんなんだよこれは。ぼくを使ってゲームか何かしてるのか?」とかそういうことを間違いなく言うはずなんですね。

それがないということは物語上で偽時男が更新しているあのブログと、我々が読んでいたあのブログは同一のものではないということになります。

後者。第一部から第二部までを読み終えたあとに、推理のために再読を始めた人が最初につまずくのがあのメールの存在です。そんな大きな謎のわりには「時男の正体とは!?」の記事でこれが謎として扱われていません。

つまり、これは謎以前の問題であるのか、この事に言及することができなかったと読み解くことが可能です。

謎以前の問題。メタ層にいる渡辺さんが「え、当たり前に物語として書いた作品なのに、なぜか読者の人たちは自分が物語層にいると思っている、こわ。その発想はなかったわ」と思っている可能性。

言及できなかった可能性。これは単純に興を削ぐために言えなかったのかもしれません。渡辺さんの作品で言えば『iKILL2.0』の途中で「どうも、作者の渡辺浩弐です! 楽しんでいただけてますか? 菊田孝一はこのあとどうなっちゃうんでしょうか? 引き続きお楽しみください!」ってメールがきたら物語が台無しですよね。

その文脈で、「このブログは小説である」とする答えにたどり着くヒントは出せなかった可能性があります。

ただ、『日月時男』が小説であるとしても、それ自体が小説としての価値を毀損するものではないことも付け加えておきます。

虚構を現実と錯覚させるのは、渡辺浩弐さんの得意とする作風のひとつであると先程書きました。渡辺さんが小説として小説をただ書いただけで、一周回ってそれを達成していたこと。少なくない読者が「これは現実だ」と認識していた事実は特筆すべきことです。

これを成し遂げた実績があるクリエイターさんはなかなか少ないのではないのかと考えます。

次回、日月家の家族構成編に続く予定。

余談

『日月時男』を現実世界の物語として読むこと=物語層のみでの解決も可能ではあるとは思います。

交合機械などのトンデモが過ぎると思われるものについても、誰も見たことがないので無条件に否定することは本来はできないはずです。

ただそうなると読者が時男のメールを読めていた理由の部分で、パワープレイが必要になると考えています。

偽時男宛と「わたし」宛の二通を、時男がメールとして送っていたと考えることもできます。そして先着順で偽時男のみが入れ替わりに成功したのだと。

前提部分で偽時男は時男の兄弟と書きました。つまりは元々同じ館の中にいたから入れ替わりができたと思っていたのですが、我々読者はあの館の中にはおりません。

今これを読んでいる「あなた」にお尋ねしたいのですが、あの一連の入れ替わり=拉致が「あなた」自身に起き、成功する可能性を「もちろん十二分にあり得るよ」と言えるでしょうか。しかも事後、振り返って考えようにも拉致された記憶は「あなた」には一切ありません。

あるいは私たちはすでにあの館にいる。私たちの現実は妄想や虚構であると考えることで、拉致を成り立たせることができるでしょう。

しかしこれも、大多数の読者が納得はしづらいでしょう。

このあたりのリアリティーラインを考えると、素直に「小説」だからメールが読めたんだよ、とした方がスムーズだと思います。

余談の余談

とはいっても完全に小説だとすると、多くの人が考えたであろう「メールで正体を当てること自体が、物語の構成要素になっているのでは」とする部分が成り立たなくなる恐れがあります(この点2回くらい先で書く予定)。

「ロジックエラー」が発生しているような気もするのですが、このあたりは各自のなかで折り合いをつけるしかないような気がしています。

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