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その知らせは、想像以上に私を冷静にさせた。

 先生の訃報は、むしろ私を冷静にさせた。 覚悟できていたわけではなかったが、近いうちに来るかもしれないとは思っていた。そんな風に思わないようにしようと何度も思っていたけど、近いうちに 来る知らせだと思わずには いられなかった。 


 1年前の先生の誕生日。毎年のようにお祝いをしようと思い、電話をした。電話の先の先生は、固い声で自分が病気であることを告げた。その病気は、ほとんどの患者が半年から1年で亡くなってしまう病気であることを私は知っていた。電話口では平静を装ったけれど、電話を切ってから一人で泣いた。先生と 知り合ってから28年経つところだった。先生のいない人生なんて、考えもしなかった。 

 先生は 私よりちょうど40歳年上だった。普通に生きていれば、私よりも先に亡くなることは分かっている。 だけど、私よりも誰よりも、いつでもエネルギッシュでよく動き、明るく甲高い声でしゃべり、歌い、趣味の踊りもガンガン踊る人だった。だから、やすやすと100歳までは生きてくれるだろうと 思っていた 。100歳まではあと20年以上ある。 先生とお別れすることがあっても、それはずっとずっと先の未来だと信じていたのだ。

 それから1年以上、先生は生きていてくれた。周りには「生かされている」とおっしゃっていたとも聞く。去年の冬、誕生日の電話の時には もう会えないと言われていたけれど、半年後の秋に勇気を出して連絡したら、快く会ってもらえた。2歳になった娘にも会ってもらえた。第2子を授かったことをものすごく喜んでくれた。だんだんと体が弱っていくことには気づいていた。しかし、このまま生きて体調が良くなってくれる未来を夢見続けた。調べてみると、同じ病気の人でも10年以上生きている人もいるらしいのだ。

 最後に会ったのは一か月半前だった。第2子妊娠に際し、しつこく続くつわりについて 聞いてもらうと、先生は自分も同じだと言う。

「口がまずくて食べ物が美味しくない」

「食べると気持ち悪い」

「 お腹が パンパンに張る」

 ただし、先生は私と違うところもあった。空腹感は感じづらい。お腹がパンパンに張る原因は胎児と羊水ではなく溜まってきた腹水だった。 腹水がたまることは 病気が末期に近づいてきたことだと知識として知ってはいた。けれど、考えないようにした。 その時、先生はほとんど布団のに布団にいたけれど 立って歩いて手作りのゆず大根をご馳走してくれた。まだこれから回復してくれる、と思うようにした。その後もメールのやり取りを した時もあったけれど、今年の誕生日祝いの メールへの返信はなかった。時間を置いてまた連絡しようと思っていた。


 先生はこれからも生きてくれてくれると思い込もうとする心と先生がの病気が進行している事実との両方を胸に持って生活していた。友人が届けてくれた訃報は感情を揺さぶるより先に、今後の行動指針を考えるよう促すきっかけになった。

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