『雲』

ずいぶん昔に(多分1986年くらい)書いた下手くそな小説もどきです。小説の入れ小細工を作りたかった、それだけの自分用メモです。



俺が仕事帰りに見つけたのは地球だった。
それは細い路地の途中塀のそば、地上60センチくらいのところに
浮かんでいた。
俺はそいつを握った。
その握った感触はただの丸い石のようだった。

珍しいこともあるもんだ、と俺はそれをポッケにいれて
もって帰ることにした、
アパートの鉄階段をのぼる。
六畳一間の箱
まるで虚空の中に12本の線が交わったような
この部屋の中では何も起こらないし
また何が起こっても不思議ではないような気がした。
だからドアを開けて靴を脱げばそこは居間。
電灯をつける
俺は顔を洗いタオルで拭い
畳にじかに置いてある小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出し
テーブルに置いた。
たばこの焦げのついた座布団。
ビールを一口飲み、手を伸ばしジャケットのポッケから
地球を取り出した。
テーブルの上15センチで手を離したのだが
地球はその高さで浮かんだままだった。
見るとちゃんと自転をしている。
しかもどこから見ても地球の半分は昼で半分は夜である。
試しに電灯を消してみた。
地球の様子はそのまま、
この方が全然きれいに見える、
光源なしで反射しているように見える
電気代のいらない常夜灯兼インテリア
裏返しになったプラネタリウム
これは便利だなと俺はつぶやく。

しばらく暗い部屋で地球を眺めながら
ビールを飲んだ。
酔いがまわってきて
地球を擬人化して呼びかけた、
おい、地球、月はどうした?
どこかに忘れてしまったか?
それとも仲違いでもしたか。
月には確か有人基地があったはずだが、
ま、いいか、
とにかく月はない
ツキに見放された、運のない地球と
俺は一人で嗤った。

俺は時給で働いていて
夜勤なんかもある職場であるから
その翌日から夜勤がしばらく続くのだった。
昼頃起きて飽きもせず地球をながめていたのだが
夕方の出勤前、ふと思いついた。
この地球、光源はなんであれ
反射であれ、光を発しているのであるから
もし万が一過熱して発火でもしないだろうか。
ま、大丈夫だろうと思ったが
ぼや騒ぎはごめんだし
取扱説明書もなければ、もちろん
何かあってもメーカーの保証もない。
念のために一番大きなコップに水を満たし
その中に地球をひたした。
地球はそれでも変わらず
コップの中で律儀に光りながら
自転を続けていた。
コップの水が青く染まって
この方がきれいだなと俺はつぶやき
靴を履き部屋の電灯を消した。
ドアを閉める時、暗闇の中のコップを見て
小学校の修学旅行で買った江ノ島土産を思い出した。

何日かは、地球は
インテリア兼常夜灯のままであった。
水中花でなくて水中惑星。
彼女を部屋へ呼んで
この青い微光の中で愛し合ったら
など思ったが、
何しろ月がない地球である
彼女の月がなくなったら
俺はちと困るのである。

その日は夜勤明けで、
始発電車で帰宅することになった。
まだ夜の青は朝の白に駆逐されていなかった。
鉄の階段を上がり、ドアを開ける
おや、青い常夜灯が消えている、
おかしいぞ、
手探りで電灯をつける。
ああ、と俺は小さく呻いた。
ついにやっちまったか、と。
コップの水はあらかた蒸発していた
以前、地球だったものは
ただの赤茶けた丸い石になっていた
しかし、コップの中に浮かんでいるそれは
まさしく地球だったものだ。
自転も発光も、もはやしていない。
ただ浮かんでいる石ころ。
何が原因だかわからないが、
自分の体積以上の水を蒸発させたのだから
ただならぬ事態が起こったのであろう。
火事にならないでよかった。
たったコップ一杯の水を蒸発させただけの
地球。
俺は地球をつかんだ
それは急速に冷えていくようだった、
俺は少し意外な気がしたが、
このままこの石を置いておいても
価値はない、ただの石ならまだ
文鎮に代わりにもなろうが。
俺は窓を開ける。
窓に向けて赤い石を指先ではじく、
それは窓の外へと漂って行った。
俺は窓からそいつの行方を見送る。
かつての地球はすぐ前のマンションの
バルコニーをかすめ電信柱に取り付けられた
サラ金の看板の向こうに見えなくなった。
そして俺はかすかに夜の青が生き残っている
空を見上げる。

空は
夜明けの空は
巨大な水蒸気に
覆われていた。

終わり



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