備忘録 YMCA×宮台真司「社会という荒野を仲間と生きるーイエス編」②
※以下の文章は宮台真司の講義を備忘録として自己流にまとめたものです。
◆宗教定義論【2】
先に述べた《聖》なるものを宗教の定義とする考え方が、ある時期から不完全なものだと批判されるようになる。「ハレ」なるものが単なる非日常なトランスであるならば、例えば踊りに熱狂することや植物性のドラッグ、大麻やメスカリンによる酩酊体験も宗教的状態と言えるのか?結論はNOである。これはロジカルな問題ではなく、我々は「宗教」という言葉をそのような対象に適用していない。
人文社会科学は自然科学と違って、我々の日常語で指し示された対象を分析する学問で、例えば我々の日常言語(自然言語)で語られる水は、科学言語によって厳密に本質規定される水のことではない。したがって人文社会諸科学が語るところの宗教定義論とは、皆がその定義を意識せずに使っている「宗教」という言葉を分解し、パラフレーズして、どういう条件を満たしていれば、それを「宗教」と呼びうるのかを調べる。それが人文社会諸科学のユニバーサルな普遍原則なのである。
その意味で《聖》なるもの=「宗教」という定義は未規定である。ドラッグや性的興奮を普段われわれは宗教とは呼ばない。従ってこの定義はパラフレーズ的に不完全ではないのか、と、このような指摘をしたのが1960年代、オーストリアの宗教社会学者ピーター・バーガーと彼の盟友であるトマス・ルックマンである。そこでピーター・バーガーは、宗教定義として《聖》なるものに換えて〈至高の現実〉という概念を立てる。
われわれは条件プログラム、つまり目的を達成するために絶えず手段を準備している。もし~ならば~~となる、例えば「毎日運動すれば健康になれる」というような「if-then文」、マックス・ウェーバー的に言えば目的合理性を生きている。この条件プログラムは言葉を換えると、ある前提を所与のものとして置いた上で、その上でどうなるかを考えるという構成となる。例えば「頭が良くなりたいから~をする」という具合に。
ところが、この前提はさらにその前提へと遡及することが可能で、なぜ頭が良くなりたいのか→金持ちになりたいから→なぜ金持ちになりたいのか→病気も貧困も恐れずに済むから→なぜ病気や貧困がイヤなのか→なぜ、なぜ、なぜ…と、子供のする問いのように段階的に遡り、より根源的な条件、より究極、より至高へと近づいていく。なぜ人間は生まれたのか、なぜ地球は、なぜ太陽系は、なぜ宇宙は、ビッグバンは…と、最終的にこれ以上説明のできない根源的な条件に突き当たるのであり、それをわれわれは通常の現実に対して〈至高の現実〉と呼ぶことができる。
われわれの社会、すなわち世俗の時空間を支えている条件付けのシリーズを遡っていけば、必ず最終的に端的なもの、イニシャルなもの、パラマウントなものに行き当たる。そのイニシャルなもの=パラマウントなものに関わる意味論、世界観を「宗教」と呼ぶのである。これがピーター・バーガーとトマス・ルックマンの考えであり、二人によれば「cosmos(宇宙論)」とも呼びうるものである。言い換えれば、なぜそれが端的であり説明できないのかという謎に関わるわれわれの観念の総体を「宗教」と呼ぶのである。
同じことをマックス・ウェーバーに則してより判りやすく説明してみると、われわれは目的合理的あるいは手段的合理性に従って生きている。つまり何かの手段としてその手段を用いている。だが、その何かの手段は別な何かの手段であり、全体としては、大目的があって中目的があり小目的があり、それがさらに細かく分節して連鎖している。しかし、この手段的合理性に従ったわれわれの振る舞いは、必ずなぜその最終目的を設定したのかという問いに突き当たる。そこでマックス・ウェーバーは、すべての目的合理性は「価値合理性」であり、すなわち端的なものを信じる、端的なものにコミットするという、まさに端的な営みによって支えられており、あるいは、支えられてきたと考えた。
そうであるならば、われわれは資本主義のシステムに巻き込まれて生きなければ野垂れ死ぬ、あるいはシステムから外れれば生きていくことができないと考える状態、つまり死ぬのが嫌だからシステムにコミットしているという生き方は、実は間違っているのであり、死ぬのが怖いから近代のシステムに適合し、目的合理的に振る舞うといった生き方は、何の「価値観」でもないということになる。従ってどんな目的合理的な振る舞いも、マックス・ウェーバーに従えば出発点に価値へのコミットメントがあり、その価値へのコミットメントを正当化するような意味論、世界観をこそ宗教と呼ぶのである。
◆宗教定義論【3】
〈至高の現実〉は多くの場合、《聖》なるものとかなりの部分で一致するのだが、それでもやはり一致しないものがある。1970年代、ニコラス・ルーマンという社会学者がよく持ち出していたのが憲法である。憲法は「価値」のハイラルキーであり、日本を除いて、どの国の憲法も一番重要な規定として第一章に「人権規定」を置いている。その人権規定の中でも圧倒的に重要な規定が「思想・信条・表現の自由」である。だが、価値の最上位に置かれる「思想・信条・表現の自由」を、普通われわれは宗教と呼ばない。
(※ 日本では手続き上、天皇によって発布された欽定憲法の形式を採用しているため、天皇に関する規定が第一章に置かれている。)
そこで、ニコラス・ルーマンは第三の定義を提出する。それが〈根源的な未規定性を無害化して受け入れ可能とするもの〉を宗教とする定義である。これはキリスト教を理解する上で重要な概念でもある。
ルーマンの書籍は極めて難解であるため、宮台真司によってパラフレーズされた表現に従えば、根源的未規定性とは、条件付けようのない理不尽や不条理のことである。誰よりも健康に気を遣っていたのに癌で若死する、誰よりも安全に気を配っていたのに衝突事故に巻き込まれる、などといった、この類の理不尽や不条理を根源的未規定性といい、これを無害化するのが宗教なのだとするのがルーマンの考えである。
理不尽不条理は無害化されなければ有害である。先述のようにわれわれは目的合理的、手段合理性に従って振る舞おうとしているのだが、理不尽や不条理が処理されないままだと、目的合理的に生きる意欲が失われてしまう。この世はどうにもならないというニヒリズム、シニスムを蔓延させてしまうことになる。従って、われわれの条件プログラムに従った営みを守るために理不尽不条理は無害化されなければならない。その無害化のための「意味論」を宗教というのである。これがルーマンの定義であり、宮台真司が採用している宗教の定義でもある。
(※ 意味論とは概念と命題からなる一連の複合体のことで、例えば、学校教育に関する意味論は、先生、生徒、教室、授業、テスト、教科書、成績、校長、教頭、教育委員会…などで、それら概念の間に一定の概念のネットワークをつくる規範、価値観、そうしたものが学校教育に関わる意味論となる。)
以上が、われわれが宗教と呼んでいるもののすべてを包摂し、しかも余りが出ないという希有な定義である。しかし、余りの出ない希有な定義であると今言い切ってしまっても理解がまだ覚束ないので、宗教進化論へとシフトすることで、この定義の完璧さに対する理解が補強されるだろう。
(次稿YMCA×宮台真司「社会という荒野を仲間と生きるーイエス編③ 宗教進化論)
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