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備忘録 YMCA×宮台真司「社会という荒野を仲間と生きるーイエス編」④

※以下の文章は宮台真司の講義を備忘録として自己流にまとめたものです。

◆カトリックの顕教と密教

なぜイエスは自分を敬虔なパリサイ派だと考えたのかというと、インチキなパリサイ派は戒律ではないものを戒律だと主張することによって、身分を名乗っていると考えたからである。イエスのこの着想は後の宗教社会学にも重大な影響を与える。

例えば中世(8~9世紀)においてキリスト教は完全に道徳化しており、罪を悔い改めるために聖職者の前でカミングアウトする「告悔」の習慣は、上流の人間に媚びるために行われたというのが、宗教社会学者による完全な定説となっている。上流の人々にキリスト教を公認してもらうためにキリスト教はクズ化、道徳化したのである。

上流の人間は余裕があるので道徳的に振る舞える。道徳的に振る舞えない下流の人々が社会を混乱させているのだ、あるいは彼らが下流なのはそもそも彼らが道徳的ではないからだ、というように階層化された社会を全面的に肯定した上で、下層、下流に対する圧政を正当化できるからである。

道徳主義化した中世の聖職者たちにのせいでキリスト教徒たちは、「罪を犯さない者が救われ、罪を犯す者は救われない」という勘違いをした。そして、このような勘違いをすべて取り去るべきだとして、従来の教義体系を刷新したのが、カトリックにおける第2バチカン公会議(1962)である。

この会議において大きな働きをしたのがオーストラリア人にしてブラジルの聖職者、後に天才的な社会学者となるイヴァン・イリッチであった。彼はカトリックにおけるキリスト教がインチキであるという運動を聖職者として教会内で起こした人物。彼らによって「利己のための利他」は完全に否定されたのである。この刷新に比べれば、第2バチカン公会議における典礼の変更など取るに足らない。

今やカトリック教会内で「告悔」はパーフェクトに無意味だということが知られている。ただ、教会は自分たちの従来の教えが間違っていたと認めるわけにはいかない。神の声を民に伝えるメディエーターがしばしば間違うなどと宣言すれば、教会の権威が台無しになることが目に見えているからだ。

宮台真司は高校時代、教会の読書会で「戒律に従わなければ救われない、あるいは罪を犯さなければ救われないなどということは、イエス信仰においてあり得ない」という問いを神父に投げかけたところ、「まったくその通り。第2バチカン公会議において聖職者の間でその合意はできました。しかし、それを一般の人に語ることはできません。教会の組織防衛のためです。」と答えられたという。組織防衛しなければ福音が一般に届けられないとする理屈であり、かくして1962年の第2バチカン公会議以降、カトリックは「顕教」と「密教」となった。

カトリックにおける顕教は「罪を犯さなければ救われる」という、完全にセルフィッシュな、アメリカ的プロテスタントに象徴されるような「利己のための利他」であるが、それを徹底的に完全に否定するのが第2バチカン公会議以降のカトリック、すなわち密教のカトリックである。


◆「祈り」

前教皇ベネディクト16世はイエス信仰の祈りには二つしかないと書いている。『私が皆を裏切らないように私を見ていてください』と『私はあなたのものです』という、この二つである。

一つ目の祈り、『私が皆を裏切らないように私を見ていてください』とは、もちろん監視して罰を与えよの意味ではない。ベネディクト16世によれば、この祈りはすべての古い宗教に存在する「見る神」の表象であり、「私は利他的、貢献的に振る舞いたいのだが、弱い存在なので時々ヘタレてしまう。その時、あなたが、神が、先祖が見ていてくれるだけで力が出ます」の意である。イエス信仰において本質的な「救済」とはヘブンズゲートをくぐって永遠の命を獲得することではない。それはユダヤ教の考えである。イエス信仰の基本は「見ていてくだされば力が出ます」であり、これが救済、サルベーションなのである。太宰治の『走れメロス』のように、弱い人間でありながら利他的・貢献的に振る舞えるのが、イエス信仰におけるサルベーションである。

二つ目の祈り、『私はあなたのものです』は、誰であれ利他的・貢献的に振る舞ったとしても、人間は不完全な存在なので、意図せざる帰結を絶えずもたらすもので、例えば現在のドイツがEUの重要な盟主となり得たのは、ナチスドイツの暴虐とその悲劇を経たからで、それが無ければ今も相変わらず悪い国であった可能性がある。人間万事塞翁が馬、終わり良ければ全て良しなのだが、どこが終わりかは誰にも判らない。つまり、『私はあなたのものです』は、良かれと思って私はいろいろやりましたが、それが本当に良かったかどうかは私には判らない。だから絶対者であるあなたから見て、私のしたことが間違っているのなら、どうぞ遠慮なく地獄に堕としてください、と、これは「利己的な利他」の否定である。

これら二つの祈りのうちの前段「私が皆を裏切らないように見ていてください、見ていてくだされば力が出ます」は、自分のためなのではない。それどころか自分はどうなっても構わないと念押しをするのが後段の祈りで、「もし私が間違っていたなら地獄に落としてください」なのである。従って、良いことをしたから救ってくださいという日本人の御利益信仰やアメリカのクリスチャンが抱きがちな構えを完全否定している。これがイエス信仰の中核を構成するというのがベネディクト16世の考え方で、宮台真司も完全に同意するものである。


◆「原罪」

『私が皆を裏切らないように見ていてください。私はあなたのものです』。これがキリスト教の祈りの本質であるというのがベネディクト16世の、というより、第2バチカン公会議以降のカトリック聖職者の合意事項である。しかし、自分が救われたいから皆を裏切らないという意欲が完全に否定された上で想定されるこの『皆』とは誰なのか。この未規定性は解決不可能な問題で、第2バチカン公会議以降のカトリック神学者たちは、これを「原罪」に関わる問題だと考えている。

原罪には「時間的な原罪」と「空間的な原罪」の二つがあり、時間的な原罪とは、人間万事塞翁が馬で、良かれと思って行ったことが酷い結果になり、酷い結果が後の良いことにつながるかも知れず、何が何だかさっぱり判らない。つまり僕たちは時間的に未規定な因果性を生きている。空間的な原罪とは、僕たちは言葉を使うがゆえに永久に不完全であらざるを得ないわけで、例えば日本人も在日も同じ日本人なのだがら差別すべきではないとした場合、では、日本人以外はどうなのか。日本人も外国人も同じ人間なのだから差別すべきではないとした場合、では非人間、人間以外の知的動物はどうなのか。AIの発達により進化した人工知能はどうか、と、このようにわれわれが言葉を使う限り永久にこの問題は続く。これも原罪である。

人間だから時々間違うのが原罪なのではない。原罪は可謬性、つまり時々間違うという議論ではなく、時間的にも空間的にも出流的に人間は必ず間違っているのである。だからこそ二番目の祈り『私はあなたのものです』が意味を持つのである。

それにしてもなぜ神はこのような原罪を持つ不完全な人間を創ったのか。エデンの園における蛇によるそそのかしにより、知恵の木の実を口にすることで、それまで存在しなかった善悪の概念が人に宿る。しかし、その善悪の概念はトンチンカンでいつも間違っている。神が全能であるならば、エデンの園にいた蛇とは誰なのか。どう考えてもこれはヤハウェでなければならない。知恵の木の実を食べるようにそそのかしたのは神の意志である。

ベネディクト16世の著作物によれば、神は意図して不完全な世界を創った。全能の神から見ても予測不可能な不確定的な営みをする人間を創った。ベネディクト16世によれば、なぜそのような存在を創ったのかと言えば、「面白い」からである。全能者がパーフェクトな世界を創るのはトートロジーで、そのような動機を神が持つはずがない。動機としてあり得ない。

全能者が世界を創るとすれば、それは不完全な世界を創るだろう。それ以外の動機は考えられない。世界の不完全さを象徴するのが、神の似姿、つまり神に似て善悪の判断をするものの常に間違っている人間を創る。その結果、何が起こるのかは、全能の神ですら予想できない。これが「原罪」の概念の背後にある本質的な議論なのである。


◆「力の湧き出し口」としてのイエス

以上、縷々述べてきたような議論は、すでにイエスの説教の中にすべて含まれているというのが、第2バチカン公会議以降のカトリックの聖職者たちと宮台真司の理解である。そこでは宗教はすでに個人のものになっている。何を信じるかによって個人ごとに問題になる枠組みが変わる。しかし、個人ごと信仰ごとにchoiceする宗教的意味論の体系によって、それが処理されたりされなかったりする。

これがイエス信仰のフェーズである。イエス信仰の基本は〈開かれ〉を解くことにある。戒律に従ったら救われる? 馬鹿を言え。よく周りを見てみろ。誰が戒律に従えるのかを見ろ。あるいは戒律に従っている者たちの動機を見ろ。奴らはクズだぞ!自分が救われたいがために他人を助けるクズ。宮台真司はここでサマリア人の喩えを述べる。

強盗に襲われた人が路傍に倒れている。ラビ(聖職者)もレビ(祭式部族)もすべて通り過ぎる。なぜかと言えば、613のミツヴァーに書いていないから(※このこと自体は福音書の記述にない)である。だから彼らは無視するのである。しかし、被差別民であるサマリア人の旅の商人が思わず近寄り、倒れていた男を宿屋まで運び、有り金を叩いて介抱を頼む。イエスは問うのである。あなた方は誰を隣人にしたいのか、と、この問いも極めてイエス的なレトリックである。

あなたはどちらをリスペクトするのか。通り過ぎる者たちか、それとも、戒律のことなど頭に浮かばず、思わず倒れていた男へと駆け寄ったサマリア人か。どちらが神に近いのかを問う以前に、どちらが「まとも」な人間なのかは、論じるまでもない。だから、あなたが隣人としたい者だけを神は救うのである。

救われる者だけが救われるというパラドクスを否定し、なおかつ利己的な利他、見せかけの利他を否定するのがイエス的なるものの本質であり、イエス信仰とは、まさにその中核部分をフォローするというのが宮台真司の理解である。罪を犯さなければ永遠の命が得られ、罪を犯せば永遠の罰が与えられる。ゆえに私は神の前に誠実でありたい、などと、イエスに言わせれば「クズ」である。

イエスは自分を敬虔なユダヤ教徒だと思い込んでいるクズたちを否定した。イエスが自らを敬虔なユダヤ教徒、すなわちパリサイ派だと考えたのは、613のミツヴァーは人が作ったものであり、ラビが上層に媚びるために作ったものだと見抜いたがためである。そんなラビの言葉を真に受ける必要はない。613のミツヴァーが法であるならばその法を犯せ。あるいは、法を犯す者にこそ(動機次第では)福音が与えられるであろうというのが、ユダヤ教的なものとはまったく異なるイエスの議論である。

真実イエスが神の子供であったかどうかは、イエス信仰においてどうでもいいことで、なぜイエスが神の子だと思われるようになったのかを理解することが大事である。イエスが神の子であるから信じるというような言葉の自動機械こそ否定されるべきで、すべて〈開かれ〉が大事なのである。イエスが神の子と呼ばれたのは、多くの人間がイエスの言葉を聞くと感染し、ぞろぞろ付いて行きたくなったからで、事実そういうことが起きたので、当時のローマ帝国では何とかイエスを犯罪者として罰する必要が生じた、というのが事の次第である。

同じ民族、同じ国、同じ共同体だからといって社会は常に同じではない。いろんなタイプの人間がいて、階層化も進み、言葉も必ずしも通じ合えない。そういう中で、ごく一部の者たちだけによって戒律が遵守され、それを彼らは良しとしてきた。イエスはそういうクズたちを徹底して否定した。徹底して否定し得たのは社会が変わっていたからで、社会がすでに変わっていることに気づけるくらい〈開かれ〉ていたからこそ、人々にそれを感染してぞろぞろ付き従ってきたのだ。

契約は改められた。「旧約」は「新約」に改められたのである。そう言うと疑う人々もいるが、だったらこれを見てみよ、とイエスは奇跡を起こした。これは私の力ではなく神が私を通して現れたのだ。なぜならそれは私が神のメッセージを正しく伝えているからであり、私を通して神が現れたということは、それは確かに契約が改められたということに相違ないのだ、と。それがイエスの奇跡と呼ばれるもので、超能力のようなものとはまったく別種なものである。

《聖》なるものとは、力の湧き出し口のことであり、実際にイエスに近寄り、イエスの説法を聞くと力が湧いたのである。『聖なる犯罪者』においてはダニエルの近くに行き、ダニエルの説法を聞くと人々に力が湧いたのと同じで、だから足萎えが歩くようなり、力を無くした者が息を吹き返すという奇跡が起こった。イエスを通して力が注がれることで、実際にそういうことが起こったのである。

力の湧き出し口としての《聖》なるものがイエスにおいて機能していたように、ダニエルにおいても機能していたのだとすれば、まさにダニエルはイエスの再来なのである。ところで、すべてのカトリックの聖職者たちの間では聖職者自らがイエスになってはいけないと考えられているのだが(※カトリックにもプロテスタントにもヒトラーをイエスの再来と見做した一部の聖職者がいたという歴史的教訓から)、一部の聖職者の間では力の湧き出し口が時折イエスの信仰者や聖職者の間から現れることが福音なのだと考えられている。

これは論争的ではあるが、東京カトリック教区の一部の聖職者、宮台真司のよく知る聖職者などはそう考えている。すなわち教会法は教会法として、イエスになってはいけないという枠組みは枠組みとして認めつつ、時折、その教会法を破り、自らが力の湧き出し口として機能する者が出てくることも必要不可欠で、それがあればこそ、信仰者であること自体によって福音に預かれるという感覚を失わせることがないのだと考えるのである。

以上



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