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備忘録 YMCA×宮台真司「社会という荒野を仲間と生きるーイエス編」①

※以下の文章は宮台真司の講義を備忘録として自己流にまとめたものです。


◆映画『聖なる犯罪者』について

聖なる犯罪者ダニエルは、イエスの再来、つまり再び訪れたイエスの暗喩、メタファとなっている。このように時々イエスは再来しないと、人はただひたすら信仰者であれ劣化し続けるのだということが映画によって示されている。

イエスは犯罪者である。ユダヤの法は、戒律、律法ともいい、律法はすなわち法律。イエスは祭壇で酒盛りしたり、戒律が否定する娼婦を持ち上げ、神に近い存在だと言う事によって犯罪を肯定した人、つまりイエスは犯罪者である。

イエスは自分をパリサイ派、当時の主流派であると自ら自己規定していたにもかかわらず、人々はイエスに付き従う少数派とイエスは犯罪者であるという多数派に分かれた。従ってダニエルが犯罪者であるという設定は、実はイエスの条件を満たしている。

町の人々は世俗の法における合法・非合法・適法・違法そうした枠組みに閉ざされている。イエスが生きていた当時の紀元前の世界で言えば、律法の世界に閉ざされていて、律法に従えば共同体は救われると考え、誰かが律法に違反したら共同体が救われない、簡単に言うと、俺は救われないじゃねえかお前のせいで、と。

このような人たちが律法に従うのは、律法に従ったがゆえに神の裁きにおいて救われたいからであり、神に承認されたいから利他的なことを行うというならば、その人間はクズである。そういう風にイエスは律法の自動機械、法の奴隷を嘲笑した。その筆頭がラビを名乗っていたり、あるいはレビ、祭司者・祭司一族を名乗っているという〈閉ざされ〉をイエスは徹底的に嘲笑した。

宗教法の内在的な視点からいえば、世俗の法で犯罪者であることとは無関係に、宗教の時空間で肯定されるべき存在であるのかどうかの方が重要で、『聖なる犯罪者』は、教会法が世俗の法と同じような意味を聖職者に対してさえ抱く、その堕落頽落の状態を暗に批判する映画となっている。世俗の法で犯罪者であろうがあるまいが、宗教の時空間で肯定されるべき存在であるかどうかが、世俗とは無関係に決まるのだという、そのことがこの映画の中で表現されている。

宗教社会学でイエスの問題を扱う場合、信仰者であるかに関係せず、99%までは理屈、ロゴスで説明しきることを目指す。信仰とは残り1%の啓示、神から与えられたひらめきによって与えられるもので、これによってパウロも回心し、多くの人々もそれを選ぶことで、あるいは神によって選ばれることで降りてくる福音に関わっている。

社会学の中でも宗教社会学は伝統ある分野で、それゆえ神学者から目の敵にされてきた。社会学者にとって宗教は社会現象であるため、何もかも世俗的に説明されてしまうからで、これは宗教者にとっては涜神行為であり、《聖》なるものよりも世俗的なものを大きいとみなす冒涜となる。だが、先に述べたように、繰り返されてきた神学者と社会学者の論争の多くは不毛で無意味である。

宗教社会学あるいは社会学的な宗教学は、信仰というマインドを持っていなくても、イエスの価値観についてほぼ100%説明することができる。ただし、その価値観に準ずるかどうかは、1%のミラクル、啓示という福音が訪れるかどうかが重要な役割を果たす。あるいは啓示や福音が訪れないにしても、人類の中には自らの内側から湧きいずる泉のごとく「利己的な利他」ではない「端的な利他」を行いうる者が存在する、という事実が重要である。

そのような事実が現にあるからこそイエスの強力な宣教活動は行われた。事実上、イエスは一年間宣教活動しただけである。それはガリラヤからイエルサレムまでの宣教行進のようなもので、最初、十二人しか付き従ってこなかったのが、イエルサレム入城の段階では三千人以上にまで膨れ上がっていた。

繰り返すがイエスは犯罪者である。犯罪者として処刑されたのであり、その犯罪者になぜ人々は付き従ってきたのか。それは先述のように社会学の枠組みで説明できる。宗教法であれ世俗法であれ、人々がそれに従うのは罰せられたくないからで、永遠の生命が得られないのは神からの罰だと理解するからこそ戒律に従う。そのような「利己的な利他」ではなく、「端的な利他」を発揮できる者は皮肉なことに犯罪者になりがちなのである。

なぜかと言えば、困っている人を助けるため、やむにやまれずパンを奪う、そういうことがあり得るのであり、逆に言えば、法の内側にいて呑気にそれを批判する恵まれた者たちはそのことに気づかない。どちらが神に近い存在であろうか。もちろん神は後者、法を踏み越える人間の方を祝福する。イエスの実践は、そのことを奇跡ではなく事実として証している。多くの人間はクズであったが、一部の人間は法を踏み越えるイエスを貴いと思い、それに付き従うという事実を示したのである。


◆宗教定義論と宗教進化論

宗教定義論はイエス信仰のみならず、すべての宗教に当てはまる定義であり、宗教進化論は数多ある宗教の中でイエス信仰がどういう意味を持ち、どのような特殊な立ち位置にあるのかが、当時のイスラエルの特殊な状況を鑑みながら理解できる。


◆宗教定義論【1】

宗教定義論は19世紀末、人類学者の営みの中から始まった。エミール・デュルケームという社会学者やその甥のマルセル・モースという人類学者が最も有名で、彼らによる宗教の最初の定義は《聖》と《俗》という時空間の分割を前提とした、その《聖》なる時空間そのもの、あるいはそこに関わる営みを「宗教」または「宗教的」と呼んだ。

《聖》なるものとは何かについての研究は、実は日本の民俗学が一番進んでいた。折口信夫が前提としたのは〈気〉→〈気枯れ〉→〈晴れ〉の図式。〈気・ケ〉は日常であり《俗》であるのに対し、〈晴れ・ハレ〉は非日常であり《聖》なるものを指し示す。ここに〈気枯れ・ケガレ〉すなわち《穢れ》の概念を入れることで宗教の理解ができるというのが折口の発想であった。

〈ケ〉とはエナジーのことで、われわれが日常生活を送るには、このエナジーを必要とする。ところがそのエナジーは〈ケガレ〉、すなわち、だんだん枯れていく。そこでエナジーをリチャージする営みが〈ハレ〉、すなわち祝祭の時空間であり、穢れを晴らす、曇ったものを磨く営みなのである。かくして〈ケガレ〉は〈ケ〉に戻る。

折口信夫による、この《聖》なるものの図式の中に実は天皇の問題も組み込まれている。だが、折口の議論を理解する前に、先ず我々は現代の学問基準を前提として定住と定住以前の生き方の違いを理解しなければならない。映画『セデック・バレ』は首狩りをする台湾の先住民族(台湾蕃族・高砂族)を描いた作品であるが、折口信夫が自分の学問的出発点としたのは、この台湾原住民セデック・バレの生活や風習を綴った『台湾蕃族調査報告書』であった。

セデック・バレは、第二次大戦中、日本軍に協力し、精鋭部隊として活動した。彼ら先住民は一人で日本人の50~100人の働きをしたとされ、例えば日本人が一時間かかる山での移動を先住民の少年は8分で行ったと記録されている。セデック・バレは首狩りを習いとする。男は常にトランス(変性意識)状態にあり、狩り場をめぐるトライバルな争いでは、敵の首を青竜刀に似た刀で斬り落としまくる。食料がストックされることはなく、都度すべてを平等に分かち合う。戦いのリーダーというものは存在するが、皆より位が高いゆえに富めるリーダーというものは一人とて存在しない。

折口信夫が台湾蕃族セデック・バレに注目したのは、彼らが常時〈ケ〉に満ちているからで、それは〈ハレ〉と〈ケ〉の分割が存在しないからだとするのが折口の考えであった。彼らは常時天の家とつながってチャージされた状態にいる。逆にわれわれは台湾先住民と違って縄文以来の定住民であり、定住ゆえに力を失った存在である。これが折口信夫の議論の大前提である。なぜ定住すると力を失うのかといえば、それは言葉と法に従い、損得勘定で動くからで、そうしないと定住ができなかった。宮台真司の言葉でいえば法の奴隷、言葉の自動機械、損得野郎になることが定住の条件でもあった。

定住を支える生産力は農業であり、そこからあがる収穫物(ハーベスト)が定住の基本である。農耕は時間的な計画を要するため、必ず暦(こよみ)が前提とされ、暦に従ってピリオディカルにわれわれの集合的振る舞いをデザインする必要がある。そのデザインを決め、違反した者を罰するのが法であり、さらに収穫物を保全・継承・配分をめぐる法も必要とされる。それゆえに定住は法を必要とし、定住以前に法は存在しなかった。定住以前に存在したのは生存戦略と仲間意識であり、それは類人猿やそのほかのサルたちと同じであり、言葉による人間とサルとの本質的な違いなど何もなかった(これについてはまだカバー出来ていない部分もあるかも知れないが、取りあえずは受け入れてもらう)。

定住とともに法が始まり、その法を組み立てている言葉に従う作法が優位となった。また、法に従うのは罰せられるからだという損得の振る舞いも始まり、このように、法・言葉・損得への〈閉ざされ〉が、それ自体エネルギーを失った状態となった。定住初期の段階においては、まだそれは「なりすまし」であった。定住しなければ安定した生活が送れず、他の部族との競争に負けてしまう。だから、仕方なく言葉や法や損得への〈閉ざされ〉を受け入れるほかなかった。これは我々がもともと持っているゲノム的基盤に裏付けられた能力を封印する営みであり、それ自体がエネルギーを涸渇させる〈ケガレ〉の営みであった。

列島に暮らす日本人が、ある時期から、定住ゆえに避けられない〈ケガレ〉から脱する術を発見した。それが天皇である。もちろん祝祭によってピリオディカルにエネルギーを回復する方法もあるが、それは常にトライバルで規模が小さい。だから天皇が生み出されたわけだが、折口によれば天皇とはエネルギーをたくわえる袋のことで、大嘗祭や新嘗祭のたびに天皇霊を充填し、そのエネルギーを民に配る働きをする。かくして折口の図式、〈ケ〉→〈ケガレ〉→〈ハレ〉のプロセスには天皇も組み込まれていることになる。

以上、これらは宗教にまつわる折口信夫の有名な説であり、すべての宗教的なるものの出発点とみなされている。折口の述べる《聖》なるものが、なぜ宗教と呼びうるのかと言えば、この営みは普遍的、ユニバーサルなもので、世界中どこにでも存在したからである。日本の場合はある程度マクロな統治ユニットにおいても、天皇制という形態をとることでこの営みが維持されていた。

(続きは別稿、備忘録 YMCA×宮台真司「社会という荒野を仲間と生きるーイエス編」②へ)







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