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美しいひと

七五三掛龍也くん、29歳のお誕生日、おめでとうございます。この頃、節目の日を迎えるたびに、しめちゃんのことを好きになったときのことを思い出します。私が「しめ担」を名乗ろうと心に決めたのは2019年4月18日のことで、その頃のしめちゃんはあと数ヶ月で24歳になる23歳のしめちゃんだった。そもそもしめちゃんの芸能人生の15年間を思うと、これはやっぱりごく最近のことであることに違いは無いけれど、好きになった当時のコンテンツを振り返れば、積み重ねた歩みの存在と年月の経過を確かに感じる。それは、しめちゃんが常に「今」の自分と向き合い続け、その時々にできることを考え、より良く在ろうと努めていることの現れなのだと思う。

近年のしめちゃんのことを思うと、あらゆるコンセプトや方向性に違和感なく振れる、ニュートラルな状態の最適解を見つけたように感じている。以前より折に触れてしめちゃんがオールラウンダーだということを言い続けてきたけれど、近年殊にそう感じる。当時はパフォーマンスだとかダンスのジャンルの話としての観点が強かったけれど、それだけではなく、アイドル・七五三掛龍也としての「真ん中」の在り方について。過去には意図してどこか一方向に大きく振り切っていたこともあるけれど、そうしてきた期間を経ることで、大きくて多彩な振り幅を手に入れた。そして、そのどこにも振ることのできるニュートラルな状態について、おさまりの良いところを見つけたように感じられる。それは、何かしらの形容詞が付かない「自分」の核や幹が確立されてきたということでもあるのかな、と思う。

特に、近年、しめちゃんが本格的に身体を鍛えだしたことは、Travis Japan、ダンスパフォーマンスを最大の武器とするグループのメンバーとして生きていく、という覚悟のようにも感じた。踊るための、パフォーマンスを美しく見せるための身体づくり。激しく踊ると体を支えられないことがある、そうすると踊るときに体により負担がかかるようになる。バランスを見て鍛えていて、しなやかな筋肉が付いた艶のある身体を目標としている。身体を鍛えることによってイメージとの乖離が憂慮されるかもしれないけれど、中身は今でも全然オラついてないから安心して欲しい。一連の言葉を読みながら、改めて「今」のしめちゃんの信念や、Travis Japanのメンバーとして自身が在るべきと考える姿を貫き通す強さを思った。それはデビューを経て、彼の生業が「Travis Japan」になったからなんだろうな、と思う。ダンスを最大の武器とするグループに所属し、パフォーマンスを美しく見せるために、踊り続けるために。しっかりとした基盤をつくることが、今の彼の目指すところなのだろう、と感じている。過去、「見せたい自分」になるために筋肉をつけたり落としたりしたときとは、また違ったベクトルで。

5年前、しめ担になった当初からずっと、しめちゃんは本当に意志と芯の強い人だと感じてきた。当時私が「しめちゃんの好きなところ」として書き記した内容は「芯が強く肝が据わっているところ、生真面目でストイックなところ、自分の美学に基づいた「アイドル」を貫くところ」。今でも大好きなところで、私の「しめ担」である根源。あれから5年経って、しめちゃんは、より「自分の人生を生きている」ような印象を受ける。去年のお誕生日に「自分の主観に基づく他人軸での意思決定のフレームを外せたのではないか」といった旨のことを書いたけれど、改めてそう思う。あれから1年、しめちゃんが自分軸で自らの意思で自身の在りたい姿や見せたい姿を選び取っていく様子を見てきた。自らを貫く芯は更に強く太くなり、揺るがない幹を構え、凛とした美しさが増したように感じている。

私は、しめ担になってからずっと、しめちゃんが細やかにファンの気持ちを汲んでくれることやこちらの希望を訊こうとしてくれることに幾度となく救われながらも、ファンの数だけ思いがあることに丁寧に心を砕く様子を、少しだけ案じていたこともあった。でも、今のしめちゃんのことを見ていると、彼なら大丈夫だ、という気持ちになる。私自身が、過去にないほどに穏やかな気持ちでしめちゃんのことを見られている。私たちの気持ちや希望を汲もうとするとき、まずは自分の在りたい姿、自分の意志を大切にしている、という前提がきちんと見えるから。年齢を重ねるごとに似合うスタイルも変化するから、その時々でいちばん映えるものも、これからチャレンジしてこそ映えるものもたくさんある。これからもずっと、変化していくしめちゃんの姿を楽しませてほしい。そして、近年、本当に美しいひとだな、と感じるたびに、良い年齢の重ね方をしているんだな、としみじみ思う。

私は、演目の雰囲気に合わせて「自分」を抜いて染まりにいく、曲や振付の世界観やニュアンスをトレースして自分にそのまま落とし込むしめちゃんの姿がとても好きだ。その様子を私はガラスの器かまっさらな布に喩えてきたけれど、何となく、今のしめちゃんを喩えるなら、前者の方が相応しいように思う。自分の内側まで染めてはしまわず色を映す、透明なガラスの器。

相変わらず世の中は世知辛い。年度が明け彼らの奮闘もあり風穴が開いてきた様子も見受けられるものの、デビュー当初からぼんやり心を覆う靄の名残は、依然としてうっすらとそこにある。そんな中で可能な限り清らかで穏やかな心持ちでいつづけるにはどうしたらいいのだろうか、ということをよく考える。清濁併せ吞み、その後に仕分ける、濾過する。そもそも「清」だけを呑む。いろいろな形があるけれど、私にはしめちゃんがどのようなスタンスを取っているのかは分からない。それでも、あらゆる苦境に立ちながらも、描いた目標について自分の想像が及ぶ限りは諦めない姿や、まるで夢物語のような大きな希望を臆せず口にしてはそこに近づいていく、叶えていく姿を見ると、どれだけ澱みが押し寄せても心の内側までは吸い込まない、表面が汚れたとしても染み込ませない、洗い流せば元の美しい姿に戻るような、そんなきっぱりとした凛々しさを感じずにはいられない。だから、まっさらな布というよりも、ガラスの器。あらゆる表現の色を映しながらも、自らの透明さは変わらずそこにある。しめちゃんの、どこまでもまっすぐに前を向き続ける姿は、イノセントに美しい。

自分自身のことや自らの未来を信じられることは、強さだ。苦しいことも思うこともきっとたくさんあった中で、心の核を護り続けられることが、どれだけ凄いことだろうか。これまで一つ一つ積み上げてきた努力や経験、「愛されている」という自己肯定感やきちんとした自尊心がその裏付けになっているのだろうな、と思う。ままならないことばかり、決して美しいばかりではない世界で心を前向きに保ち続けることも、あらゆる声を聴きながら自分のためになることを選びそれを貫くことも、未来や自分自身を信じることができている証だ。「信じる」ことは、不確定な要素が多ければ多いほど怖い。だからこそ、未来や自分を信じて前を向き、まっすぐに生きていくことができる、そのこと自体が強さなのだと思う。

日々磨きあげられる美しいひと。私は、自らの脆さを実感するたびに「担タレ」になることの難しさを痛感している。だから、そのイノセントな美しさやまじりけのない透明な強さに、いつまでもどこまでも憧れ続けるのだ。