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言葉にしない暴力

言葉にしないことって暴力だと思う。
わたしが何かした自覚があるならまだしも、全くなく、それでいて怒りをあらわにされ、挙句の果てに「なんで怒っているのか分からないの?」と言われたことがある。
申し訳ないけどまず最初に思ったのは、「あ、やっぱりわたしに怒っているんだ」ということ。次に思ったのは、よくそのいらいらした気持ちとか、もやもやした気持ちを数日持ち越せるなあと思ったこと。理由を聞いたら、教えてくれたけど、それをその時に、その日に言ってくれなかったのはなんでなんだろう?自分が何に対して怒っているかくらい理解できるだろうとでも思っているのだろうか。そんなのは傲慢でしかないし、暴力でしかない。

もちろん、わたしが「あ、やってしまった」ということがあって気まずくなることもある。どう謝ろうかとあくせく考えるときもある。でも、わたしにはまったく自覚のない場合は、何をどうすることもできない。多分、相手は「こいつはあんなに最低なことをしたのにへらへらしてやがる。くずだ」とでも思っているのかもしれないけれど、だって分からないんだから仕方ない。

わたしは言葉を吸収しやすいタイプの人間だ。「また遊ぼうね」と言われれば、また遊ぶと思うし、「あとで電話するね」と言われれば、あとで電話をするもんだと思って過ごす。でもたいていの場合、相手はその言葉に意味をのせずに発していることが多い。つまり、そんなこと覚えていないのである。だからわたしは一人で、いつ遊ぶのかなとか、いつ電話するのかなと思って、それがなくて一人で落ち込む。わたしはそれらの言葉を使い捨てのように、ゴミ箱に捨てて忘れることができない。だからどんどん心が苦しくなる。ここ数日は特にそうだ。

全ての相手から発せられる何気ない言葉を、わたしは自分の引き出しにしまい続ける。だから、もう引き出しはパンパンで壊れる寸前。でもどの引き出しから整理していけばいいのかも分からないし、整理をしている間に次の言葉が槍のように飛んでくるから、作業は全く追いつかない。

そして仕事でテレビ会議をするときに「おつかれさま。元気?」と言われて、「はい、元気です」と笑って答える。自分でやっていて全く滑稽である。心の病は全ての他人から見て分からない。けれど、「わたし患ってまして」って全ての人に言っていたら、それだけで死ねる要因になってしまう。

何気ないその一言に、何のためらいのないその一言に、無垢なその一言に、わたしは日々傷ついている。でもそれを逐一相手に言えるほどの勇気もなけらば、気力もないし、そんなこと言ってたら面倒な奴だと思われるからできない。自分で自分の首を絞め続けている。

なんて生きにくい社会なんだろうか。
この前、初めて心療内科の先生に「死にたいと思って、飛び降りようと思った。でも飛び降りたら痛いかなと思ってやめた。そんな理由でやめたんです」と伝えた。これは、本当に勇気を振り絞る勢いで言ったのだけれど、先生は「薬が合えば不安やいらいらの感情はコントロールできます。頑張って病院に通い続けてください」とにこやかにわたしに告げた。その薬が合う前にわたしが死ぬほうが早い気がするけどな、と思って笑えた。今までよりもわたしを繋ぎとめているものが少なくなった気がする。

わたしは友達がとても少ない。それでもその数人の友達を大切にしているし、その人たちに隠し事などは一切ない。なんでも話すし、泣きながら話すときもある。それくらい深い関係じゃないと、わたしにとっては友達ではない。ある友人が「あなたはコミュニケーションを取って、自分の存在価値や意義を確かめるタイプ。本当にそのやり取りを生きる上で重要にしている。だからこそ、簡単に人と会えなくなった今、本当にしんどいと思うけど、コロナ禍での自分のうまい生き方を自分で見つけていかないといけない」と。本当にその通りだと思う。わたしは、言葉がすきだ。文字としての言葉もすきだけど、声に出すほうがすきだ。対面のやりとりのテンポが、声色が、表情が、その全てを含めて言葉に依存している。だからこそ、それができなくて、どう生きていけばいいのか分からない。

このままだと遺書を書く必要に迫られるけど、それも面倒だな。ゆりの花に囲まれて寝ると、眠るように死ねるって聞いたけど本当だろうか?ぼんやりとそんなことを考えながら、夜寝て朝目が覚めなきゃいいのにと祈っている。

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