仮面を着るのは誰か──ミリシタメインコミュ 144 話(二階堂千鶴「あなたと共に」追加楽曲:ムーンゴールド)感想


要旨

  1.  メインコミュ第 144 話は、おそろしく完成度の高いコミュである。

  2. 「二階堂千鶴はセレブである」という仮面を着るのは、P もまた、そうである。二階堂さんと P が共に仮面を着るという約束において、二階堂千鶴が存在する。

  3.  144 話前半における二階堂さんの動揺は、P がその仮面を脱いだことによるものである。

  4.  二階堂さんと P との約束そのものを知ることは、(このコミュを視聴する私たち自身を含めて)何人にも出来ない。唯一の例外が社長である。

  5.  少なくともこのコミュの文脈において、「ムーンゴールド」は「恋心マスカレード」にも先立つ始まりの歌であり、二階堂千鶴にとっての「約束」である。


 どらこ爆発と申します。如月千早担当を名乗らせていただいておりますが、本稿では表題のとおり、二階堂千鶴さんのメインコミュ「あなたと共に」について、菅見を述べさせていただきたいと思います。

 ただ、少し遠回りをさせていただくことをご容赦願いたい。
 千早担当、それもミリシタからの新参 P である私にとって、二階堂さんとの出会いと言いますのは、必然として「Persona Voice」でありました。

 この楽曲が収められた「THE IDOLM@STER LIVE THE@TER DREAMERS 03」というアルバムは、私の思うに、「アライブファクター」という実存の叫びに共鳴し、あるいは異議を唱えるかのように、「私たちがこのようにして在ること」にまつわる楽曲が集うことによってあらしめられたものなのであります。

 この点につきましては、稿を改めて論じる必要があるように思われます。「Cut. Cut. Cut.」や「Smiling Crescent」が存在にまつわる楽曲であるという弁は、一見、首肯し難いものである。そのことは承知しております。しかし、それらについての論は一旦、傍に置かせていただかねばなりません。

 ただ、両楽曲についての議論を傍に置くとしても、「Decided」および「Persona Voice」が、それぞれに「アライブファクター」と対をなすが如き「存在」への叫びであることは、おおよその了解が得られるのではないかと思います。
 分けても「Persona Voice」。その歌詞を一見すれば、隠された本当の自分を曝け出すという、強くはあれどもありふれた意志に満ち満ちたもののように思われます。しかし、この楽曲を歌唱するのが、セレブの仮面を身に着けることで自分らしくあり続ける二階堂千鶴であり、また事あるごとに「穴掘って埋ま」ることを選択する──しかもその「自己の滅却」という所業を己がアイデンティティの一環にするという離れ業をしてのける──萩原雪歩であることを鑑みますれば、その歌詞にある「イツワリを脱いだ Persona」なるものが、単に仮面を脱ぐこと/穴から出ることによって現れるものでないことは明白でありましょう。

 中途半端な回り道をしてしまいましたが、いずれにせよ、千早担当の私にも、二階堂さんの「存在証明」が仮面を身に着けることにこそある──もちろんそれは仮面である以上、自ら脱ぐという選択肢が与えられたものである──という事実は、十分に了解されるのです。

 ここに一つ、問いを立てねばなりません。それは「仮面を着るのは誰であるか」という問いであります。

 否。この問いは既に立てられ、そして答えられている。本稿はただ、その追認のために言を尽くすに過ぎません。
 詰まるところ、このタブーとも思われた問いを、公式が堂々と立て、それに対してひとつの回答までをも示してみせたのが、メインコミュ第 144 話「あなたと共に」なのであります。

 この問いは、より卑近な形で問い直すならば、「プロデューサーもまた仮面を着ているのか」すなわち「プロデューサーは二階堂さんの秘密を知っているのか」というものになりましょう。
 さまざまな考察がもたらされてきました。その立場から言って、プロデューサーが二階堂さんの秘密を知らないとは思われない。しかし、劇中、プロデューサーは明らかに二階堂さんの秘密を知らないように振る舞っている。
 公式はここに、ひとつの明瞭な回答を示してみせました。プロデューサーは二階堂さんの秘密を知っている。その上で彼もまた「二階堂千鶴はセレブである」という仮面を着ている。

 ここで急ぎ指摘しておかねばなりませんのは、このことがさまざまな考察や二次創作へ波及する影響というのは、ごくごく僅かなものであるという事実であります。プロデューサーはこのメインコミュにおいて、仮面を脱がない覚悟を決めた。それは詰まるところ、このメインコミュの枠内においてのみ、プロデューサーはいっとき、その仮面を脱いだに過ぎないということであります。
 この仮面が皮膚のようにしっかりと張り付いたものであるのか、あるいは自らの意思でまた脱ぎ去ることができるものであるのか、それは各々の解釈に未だ委ねられていると言えましょう。

 さて。私は論を急ぐことによって、図らずも本稿の結論とも言える重大な指摘を既に為してしまいました。つまり、このメインコミュで起こっていたことというのは「プロデューサーが仮面を脱いだこと」なのであります。

 少し論を戻しましょう。「二階堂千鶴はセレブである」という仮面を着ているのは、二階堂さん自身とともに、プロデューサーもまたそうなのでありました。これを一種の共犯関係と呼んでも、誤りではない。ただ、私としてはこの事実を、暗黙のルールの共有があったというふうに表現したい。
 ルールの共有。決め事の共有。それはつまり、契約であり、約束です。
 千早担当の私としては、ここに共犯関係を見出してロマンチックな議論を展開する可能性をフイにしてでも──ムーンゴールドという楽曲にはそちらの方がより相応しいのではないかという、後ろ髪を引かれる思いがあれども──やはり、約束こそが人の存在をあらしめるのだという議論を採りたい。

 仮面舞踏会の場において、仮面を脱ぐことは最大の禁忌です(いや、知らんけど。多分そうだと思う)。互いに仮面を着るという約束が、互いのその場における存在を、むしろ証明する。

 メインコミュの中で、二階堂さんは、見ていて胸が締め付けられるほど強く、動揺をしていました。それは果たして、自分の仮面を脱げと言われたからなのでしょうか。
 聡明な二階堂さんならば、あの時、プロデューサーが心の底から自分を心配してくれているのだということに、気付くことができたはずなのではないでしょうか。その上で毅然と、そのような心配は無用だと返すのが、二階堂千鶴なのではないでしょうか。

 あの場にいたのが、二階堂千鶴だったのであれば。

 あの時、本当に起こっていたこと。それはプロデューサーが「二階堂千鶴はセレブである」という仮面を、自ら脱いでしまったことなのです。
 暗黙のルールは破られ、契約は破棄され、約束は、反故にされたのです。
 その時にもはや、二階堂千鶴は二階堂千鶴として存在することが出来なくなる。そのことを、果たして誰が責められましょうか。

 ただ、これについてプロデューサーを責めることもまた、私には出来ない。そもそも、私は、プロデューサーが仮面を着ていたことを知らなかったのです。
 そう、これまで誰も、その事実を事実として明確に知ることはできなかった。私たちが如月千早の物語として「約束」を知っているようには、二階堂千鶴の約束を知ることはなかったのです。
 いや、過去形で語ることすら許されない。プロデューサーが仮面を脱ぐことで、初めて、仮面を着るのが彼であったと分かった、その後にも、二階堂千鶴の約束は、あたかも社会契約のように、歴史の彼方に、ソリッドな事実としてなのかあるいはフィクションとしてなのか、ただ茫漠として有るに過ぎないのです。

(迂遠な表現を排して言えば、二階堂さんとプロデューサーとの約束の中にその約束そのものを秘匿するという内容が含まれている以上、約束が破られるその瞬間まで、誰もその約束がどのようなものであったかは知ることができない──もっと言えば、ゲーム内のコミュでその約束が交わされる瞬間を描写することは不可能である、ということです)

 私たちは誰も、二階堂千鶴の約束を知ることがない。
 だから、その約束を反故にしたことを責め、その叱咤をもって激励とすることも、誰にも、出来ないのです。

 ただ一人の人物を除いては。

 ……おそろしく完成度の高いコミュである。それが率直な思いです。

 さて。二階堂千鶴を成り立たしめる契約は、このコミュにおいて更新されました。しかしながら──ここに素朴な問いが生まれます。それで、何かが変わったのだろうか、と。

 私はようやく、先ほど論を急いだ箇所まで追いついてまいりました。この問いへの答えは、おおよそ、先に示したとおりであります。
 そう。何も変わってはいないのです。
 少なくとも、二階堂さんの担当ではなく、ただ今回のメインコミュにおいて、本来ならば見ることのなかったはずの一幕を垣間見る僥倖に恵まれたにすぎない、千早担当の私にとってみれば。
 もっとも、二階堂さん担当の方々にとってみれば、そうとも言っておられないのかもしれません。果たして、祝福すればいいのか、冥福を祈ればいいのか、よく分からないのですが。

 ともかくも私はあくまでも千早担当として、二階堂さんの「約束」として「ムーンゴールド」という楽曲についても、述べるべきことを述べることと致しましょう。

https://open.spotify.com/intl-ja/track/2gnx6EjiOnuMU2Wuzjlg1M?si=61c8ebf27438408b

 長らく私は「ムーンゴールド」を、いわば「ルート確定後」の楽曲と捉えておりました。もっと言えば「千鶴エンド」の曲であるとすら認識していたかもしれない。
 事実、この楽曲の曲調や歌詞は、ひとしきりの楽しい喧騒が終わり、そのあとに訪れる静寂の中に、二つの人影がある、そのような解釈をとるに已むないものであると思われます。

 ですが、今回のコミュが約束の結び直しであること、しかも(より固く)結び直されてなお、その契約の内容が昔のままのものであるということは、すなわち、今回のコミュは、決してそのままには語られることのない原初の約束を再現するものであったことになる。
 ならば「ムーンゴールド」は終わりの曲などでは、断じて、ない。むしろそれは始まりの歌であり、極論すれば「恋心マスカレード」にも先立つ楽曲であると結論づけねばなりません。

 事実、そうではありませんか。真昼間から開かれる仮面舞踏会がありますか(知らんけどないと思う。知らんけど)。それはこれから開かれるのです(知らんけど、多分)。
 仮面を身に着けて、宝石で飾り付けて、日の暮れようとする時間、上りいく月と共に、少女は舞踏会へおもむくのです。彼女の持つ宝石は、高貴な仮面に見合うものなのか──いや、それが如何ほどの問題でありましょうか。

どんな宝石だって
決して 決して 敵わない
眩しく優しい声
私をねえ
迎えにきてくれるの

ムーンゴールド 作詞:中村彼方

 さあ。以上を持って私は、この論を閉じたい気持ちで山々なのです。
 ですが、あと二つ、私にとっては今や瑣末と思われる問いを、それでも立てねばならないように思われます。
 その第一は、「メインコミュにおけるプロデューサーの言葉は、彼自身の言葉であるのか、あるいは仮面の言葉であるのか」というもの。
 その第二は、「『ムーンゴールド』が始まりの歌であるとしても、いずれ舞踏会は終わりを迎えるのではないか」というものであります。

 第一の問いについて。千早担当にして、幾ばくか P ドル過激派のきらいのある私として、率直なところを述べさせていただければ、半ばプロポーズにも似たプロデューサーの言葉は、あくまでもプロデューサーの仮面を被った上での言葉である、そして二階堂さんもそのことを了解した上で受け止めたのである、そのように結論付けてしまいたいところです。
 ただ──繰り返しますが、私は、実際に仮面舞踏会に参加したことがないので、定かなところはまったくの不明なのですが、それにしても──仮面舞踏会というのは、お迎えに上がるときから仮面を着ているものなのでしょうか?
 お迎えに来たプロデューサーが、劇場へ二階堂さんを連れていく、その前に、その前のタイミングで、決意の言葉を告げたことには、何か積極的な意味があるのではないかしらん。

 この問いが瑣末なものであると申し上げましたのは、あくまでも私が千早担当であるからであります。この問いに取り組んで煩悶する幸福は、やはり、二階堂さん担当の諸姉諸兄に譲らねばなりますまい。

 さて。最後の、本当に瑣末な問いに向かいましょう。「いずれ舞踏会は終わりを迎えるのではないか」。
 そのとおり。終わりを避けることはかないません──しかし、それが一体、何だと言うのでしょう。いずれ物語が終わりを迎えるとしても、物語が始まる前のマジックアワーに約束が交わされた事実は、何も揺らぐことがないではありませんか。
 アイドルマスターミリオンライブ・シアターデイズ。この物語を楽しむみなさんの目には、美しい月が見えることでしょう。今はその眩い月明かりの中で──その光で秘め事が暴かれるやも知れぬスリルをも味わいながら──楽しく踊る時間です。
 そして、ふと、いつか訪れる終わりに思いを馳せて寂しさに囚われたとしても……どうぞ、耳をそばだててください。愛らしい、無邪気な、不朽の真理に疑いを持つことのない、私たちが信念と呼ぶものの最も純粋な形態の歌声が、聞こえてくるではありませんか。

魔法は真夜中に消えちゃうけど
ゆっくりと、満ちてくよ…愛しい気持ち
ねぇ、お月様もそう思うでしょ?
ほら、お月様も笑ってくれた

Smiling Crescent 作詞:松井洋平

 本稿においては傍に置いた論を、いずれ書き綴ることもあるやもしれません。今はただ、この論を開かれたままに、筆を置くことと致しましょう。

 ご高覧、誠にありがとうございました。


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