まこっちゃん主義、さらに深読む 〜A Midsummer Night's Dream編

麻倉真琴さんの歌詞を中心&手がかりにDAサウンドを好き勝手深堀りする、まこっちゃんファン企画パートトゥー。

今回は A Midsummer Night's Dream そして BLUE SKY BLUE。
真琴&秋緒、あまずっぱラブソング巨塔二本立ての巻です。


▼ DAソロ目ラブソング科の着地点


DAサウンドを愛してやまない皆様ならすでにお気づきだろうが、そもそもDAソロの王道ラブソングって、そう多くない。

AXSやプロデュース系だったら、いくらでもラブソングの名曲をあげることができるが、DAソロで思い浮かぶのはだいたいDAが歌っていない、RAINY HEART、Star Yellow X'mas、Sheltering SeaやJade of sorrowあたりではなかろうか。え? SPACE PARADISE?あなたとは別室でたっぷりお話いたしましょう。

そもそも、世間でいうような感じで芸能人や身近な人を好きになったりイイなと思ったりするときのように、一方的であれ擬似的であれ、そしてライトであれディープであれ、行き先が恋愛感情的になりえる関係、というのが市民権をあまり得ていないように思うんですね。DAヲタの世界って。自分がそうじゃないにしても周りを見渡せばそういうタイプの人もいる、という雰囲気でもないだろう。

それはDA自身が放つオーラのせいというのも当然あるかもしれないが、ひとつとしてDAへの愛情にまつわるあれこれに「自分を関係させる」ことを極めて入念に忌避し、推しは推しだけの世界に厳格に分離する向きが我々ヲタの中にある気もする。滅私の心とでも言うのだろうか。DAの曲を聴いてそこに実在なり空想なりの人物を投影する時、たとえば曲の世界に登場人物が2人あったら、恋愛・友情・どんな歌詞の内容であれそこに"自分"と"DA"を迷いなく投影する人っていったいどれぐらいいるのだろうか。

KISS FOR SALOMEというやべえ問題作がありますね。あれもラブソングということもできるが、どう考えてもまともではない。我々DAヲタはあの曲で心を熱くし、大ちゃんんんん〜〜という、奴隷のごときテンションになってしまう。狂気のサロメ姫がのりうつったDAが誰よりも愛しく切なく情熱的に見え、人間の行ってはいけないところに行ってしまうようでギャーと叫んでしまう。「アナタハ、ワタシノモノ」そうはっきり言われてなお、ヲタクとしての情熱が燃え盛るのみである。
もし、その世界に自分を投影するならば、スタート地点ですでに主役のサロメ姫はDAということに当然なっており、じゃあ銀の皿に載せられた首?めっそうもない、皿もまだあつかましい、闇深い牢獄の床あたりがいいとこ、そういう気持ちになってしまう、ほらこれだ。これがDAヲタの滅私癖だ。

ちなみに全然本編とは関係ないが、俺はサロメに匹敵するほどDAヲタマインドを鼓舞する曲が、mercy-snowだと思ってる。この曲に描かれたほどの尊いヲタマインドをいつか手に入れたい。

話を戻して、今回はDAソロという広大な地で、このようにかなり狭いように見えるラブソングのフィールドを探して降り立ってみたい。A Midsummer Night's Dream、そして BLUE SKY BLUEが今回のターゲットだ。

▼ BLUE SKY BLUE

BLUE SKY BLUEの話を先にしよう。これはまこっちゃんではなく井上秋緒詞。押しも押されぬ名曲。高校生ぐらいの甘酸っぱい気持ちですかねぇ...夏の日、なにか始まるような始まってほしいような、ときめきでいっぱいになった体。恋のことばかり考えて過ごす日々。カルピスソーダみたいな光景がキュンキュンとよみがえってくるようだ。実際なったことなくても。

以上が、まず素直な乙女心的解釈。

俺は今回これをあえてDAと自分(というかヲタク)に当てはめて読むことにした。ちょっと我慢してついてきてください。修行だと思って。

”妹としか見れない”
そう云って遠ざけた
傷ついたまま君は
綺麗になってみせて


別に俺たちヲタクは、ご存知のとおり DAから"妹としか見れない"と言われたことは一度もない。

だけどここに、DAと我々ヲタクひとりひとりの関係の真髄が潜んでいるように思われる。

妹としか見れない。
都合のいい断り文句だよねー。ほんとに言う人いるのかしら。
そう悪たれながらも、"大事な妹"という聖域をひそやかに自分とDAの間に適用できることの安心感、引き換えに、永遠にそれ以上の思いはかなわないことを知る表裏一体の切なさを拒絶できないでいる。

「好きだって言われた」と
探るように呟く
きらめく風の向こう
心は揺れてる

往々にして相手を試しても、探った相手の本心は得られないものだ。
この曲の彼女もおそらくほしかった答えは、聞けずじまいなのだろう。

話を現実に戻せば、DAヲタもたいがい大人になり、いろんな人生経験をした。DA大好きだけで毎日騒いでいたあのころには戻れない。他に行かなきゃならないところがある。自分の心はどっちつかずで、引き止めてくれたらいいのにと願うけども、そんな答えが誰からも返ってくるはずもない。そして彼女は、わたしたちは、少しずつひとりで遠くへと歩いて行く。

これは特に、出戻った人だったらわかりみ深いと思う。いつまでもDAヲタだけではいられなくなってしまった、そんな日々を思い出す。
当然出戻りじゃなくても当てはまるケースはたくさんある。他の沼とか

恋ならば 壊れてゆくから
失くせなくて 立ち止まる想い


そのまんまである。恋ならば壊れてゆくのだ。

ヲタクとDAの関係は、決して恋にはならない。
気を引いてみたくても、遠ざかっても逆にどれだけ近くに感じても、もっと知りたくなっても、その人を恋人にすることはできない。

だけど、いつでも、いくつになっても、大切な"妹"であることにかわりはない。
失くし切れなかった思いがまだあるならば、戻ってくる場所でいてくれるのだ。

恋ならば壊れるけれど、そうじゃないなら永遠に俺らの思いはここにひとつでいられる。


...と、こういう解釈さえできるようなラブソングを、我らの天使DAはヲタクと一緒に歌いたいから作ったと言ってしまう。そういうDAの無邪気なピュアさ、屈託の無さがこの曲の後味を切なさ苦しさで終わらせずに救ってくれている。

深読みのせいで勝手に生まれたメタなせつなさを抱くことになっても、DAとヲタクの変わらない終わらない夏の日が続くことがわかったならば十分である。

▼ A Midsummer Night's Dream

さぁやっと本題です。こちらはまこっちゃん作詞ですね。ね。そうですよね。

この歌詞はさらっと読むと、フレッシュな恋人未満といったさわやかなおもむきである。まこっちゃんにしてはさっぱりとしてシンプルに明るい。

例によってこの曲を極限解釈します。

夏の目覚めの朝 きらめく露のように
君と出会えたらよかった
思い出せないほど 何気ない始まり
きっとことばもいらなくて


この曲は「君」を見つめる立場の誰かの、ひそやかな告白だ。

「君」と語り手、つまりこの曲に出てくるふたりは、もうすでに出会っている。別に恋人でもなんでもなく始まっており、いまのところステディな関係でもないが、お互いとても大事な存在ではあるようだ。

なんでもなくそこにあった日常の連続の中、ある時語り手は気づく。「君」にわたしだけの特別な存在であってほしいと。ずっと当たり前と思っていた日々が、「君」が特別に輝いて魅力的に見えた時を境に変わっていく。特別な誰かを、欠けたピースを探していてずっと気づかなかったけど、「君」がそうだったんだ。

しかしだ。この語り手は「君」と万事順調に恋人になってやったねラッキー好き好きという道をたどっているようには俺には思えない。

どうも描かれた「君」という存在が大事すぎて、その思いを「君」に伝えたようには思われないのだ。語り手の思いは、単なる恋愛感情と呼ぶにはもっと複雑でやっかいなものに思われる。

All we can feel.
All we can see.
All we can love.
All we can dream.
All we can find true piece.


「君」と語り手はきっとすでに一緒にいろいろなことを感じ、愛し、夢を見ることができる。あぁもどかしい、探してた欠片を手に入れることができるはずなのだ、「君」とならば。なのに、心に触れられそうに近くにいるのに、簡単にそののぞみはかなわない。語り手は、「君」とは簡単にハイそうですねと安直な関係になることを選ばなかった。

積み重ねてきた大事な日々と気付きの延長として、突然始まるドラスティックでロマンティックな恋愛模様を置く代わりに、これからも大事な「君」を一歩離れてみつめ、「君」の尊さをまもりたい、その痛みさえともに背負っていくのだという静かでなんなら一方通行な、覚悟と誓いが見える。

語り手が誰であるかはわからない。けれど、ヲタクとしても、この立場からこの曲に込められた崇高なまでの愛を感じ共感することはできるだろう。

もし、出会いがこうじゃなければ、違っていたかもしれない。もっとシンプルに簡単に、ことが進んだかもしれない。
だけどこれほどにまで大切な存在にはなれなかったかもしれない。
考えてしまってはつらくなるようなファンタジーへの単なる認知分析を越えてにじむ憧憬のようなものもうっすら見え隠れする。

夢であったらいいのに、と夢じゃなきゃいいのに、との波間を行ったり来たりしながら、ただ「君」への、たどり着きたい true pieceへの思いだけがふるいにかけられたようにキラキラと沈殿していく。

そしてふと、夢が覚めるように気づくのだ。もしかしたら、この「君」への気持ちそのものが、"一夜の夏の夢"にすぎないかもしれないことに。

砂浜に残した足跡か、拾いこぼした貝殻か。
夢のあともここにあるのは「君」の尊い光だけである。


A Midsummer Night's Dreamに感じるつかみどころのない儚さのわけは、この何層にも包まれた思いの多重構造であるように思う。

矛盾する現実と夢。気づいたけれど秘めたままの願い。愛だとしても何だとしても変わらないであろう大切な「君」への誓い。そして何より、「君」の輝きと美しさを思う尊い気持ちが、きらきらした暖色の音の粒と同じぐらいいっぱいに、この言葉たちにも切なくあふれているように思うのだ。

こんなラブソングがDA以外に歌えるでしょうか!!!!!


▼まとめ

ミッドサマーのみならず、BSBも秋緒詞ながらDAソロのラブソングとして多々共通点を感じるので並べていろいろ書いたが、DAソロのラブソングはやっぱり一筋縄ではいかない。たとえヲタクが自己投影しても、白い胸を預けてまどろんだりキライよと言ってみたりお揃いのringといった事態はどうにも発生しないし、こちらもやっぱり、それを望んでいるわけでもないようだ。

DAという本当にみんなにとって大切な、自分にとってかけがえのない存在。どのカテゴリにもおさまりきらない愛。DAと我々DAヲタならではの、ややこじらせた素敵な関係からしか楽しめないラブの形がある。

DAヲタにだってちゃんとそれぞれの思いがある、にんげんだもの。あなたとDAだけの特別な関係が、あなたの中にはあるはずなのだ。DAヲタにはDAヲタのラブソングがあってしかるべきなのだ。それがこの2曲じゃないかと思う。

ヲタク、いや人間やってるといろんなことがあるだろうけど、せめて自分自身には素直に優しくなってあげればいい。DAソロのラブソングが味方でいてくれる。それが言いたくてこんな記事を書いた。長々とおつきあいありがとうございました!

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