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ディクスン・カーのミステリは奥さんへのラヴレター?

 ディクスン・カーは再読に耐える作品を残した数少ない作家のひとりです。
 読書体験で言えば、トリックの優劣が作品の優劣に結びついた初期、ストーリーの面白さが作品の優劣に結びついた中期、そして人物描写を楽しむ第三期と大まかに言って、三期に分かれるでしょう。今の私は当然人物描写にスポットを当てて楽しんでいます。トリック、ストーリーはそれ程重視していません。
 しばしばディクスン・カーの作品は人間が描かれていないと酷評されていますが、よく読むと人物にもそれなりの配慮がなされていたと感じます。そして、そのような人物にスポットライトを当てて読む楽しみも十分あり得ると思います。
 最近カーの作品を立て続けに二冊読みました。四一年刊の『連続自殺事件』(三角和代訳)と六五年刊の『悪魔のひじの家』(白須清美訳)です。共に二、三日で読み終えてしまう圧倒的リーダビリティを保っています。特に、『悪魔のひじの家』は総袋叩き状態の最晩年の作品群の中で最も際立った手腕を発揮しているのではないでしょうか。両作は二十年の時を隔て、遺産相続を謎の根幹に据え、それに幽霊譚を絡ませるという似た構造を持っています。『連続自殺事件』は、トリック、プロット、共にやや弱く、肝心要の証人が半ばで殺されてしまうため、死人に口なし状態で、真相がいまいち不明瞭です。その足りないところをユーモラスな展開で補った感じで、ユーモア・ミステリのジャンルに括れると思います。『悪魔のひじの家』は病からの復活を印象付ける、直球勝負の堂々たる本格扁です。あまりに凝り固まった内容のため初読時の感想は次のようになっています。当時は本格ミステリに否定的だったことがよくわかります。

1994年の初読時(原書paperbackによる)の感想
「古い。この時代になぜこのような作品が! ……文章と最後の一ページは良い」

 ダグラス・G・グリーンはその評伝『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』の中でカーの後期の作品の顕著な特徴をまとめています。
①登場人物の芝居がかった大袈裟な言動
②はっきりせず、しばしば話半ばで中断される会話。しかも話し手はおおかた演説口調
③相手を本名でなく、ニックネームで呼ぶ幼稚さ

 しかし『悪魔のひじの家』を読む限りではこれらの癖はまだ許容範囲だと思います。そもそも探偵のフェル博士からしてはっきりしない曖昧な口調の人物ですから。
 一体、犯罪を意図している人達は、普通と違うことを考えているわけですから、その考えを行動に移す段階で既に他と浮いた存在になってしまいます。勢いその行動は不自然・大袈裟になります。読む側はそのような一人だけ浮いた存在がいると、立ち所に疑いの矢を立て、企みを難なく看破するでしょう。作る側はそれでは本の頁が持たないからと、その犯罪者の周囲にカモフラージュとして様々な大袈裟な言動をする奇矯な人物を配置するわけです。ですから、登場人物が皆大袈裟な言動をとるようになったと言うのは、この時期のカー作品のみならず本格ミステリの持つ宿命みたいなものだとも言えると思います。元々カーは初期の頃から芝居がかった、たどたどし動きの人物を出しているので、晩年にもこの傾向が出ているのでしょう。しかも、『悪魔のひじの家』は、がっぷり四つの本格篇であり、犯罪加担者の行動を糊塗するため、登場人物に意識的に芝居がかった振舞いをさせている傾向があります。2番目の特徴、登場人物の演説口調ですが、元々カーの台詞は長めで冗長癖があります。演説口調もそれに組み込まれやすいのです。また、『悪魔のひじの家』ではそれほど気になりません。3番目の相手をニックネームで呼ぶのも、まあ気にしなければ許せる範囲ではありませんか。言われた本人がどう思っているかわかりませんが。そうした奇矯な言動の登場人物の中でも一人バンカラっぽいのがいて、個人的にはかなり気に入っています。
 前述のとおり、今ディクスン・カーを読む最大の楽しみは登場人物を吟味することです。
 人物描写が足りない、人間が描けていない作家に何をと言われるかもしれませんが、最低でも魅力的なヒロインと主人公の男性との出会いと華やかな結末に浸ることができます。以前はカーのこのお決まりで、ワンパターンの“くさい”恋愛模様が苦手で避けて通りたいものでした。描かれるヒロインも相手の男性もどれも似たり寄ったりで面白く感じられませんでした。その印象が変わったのは、ヒロインのモデルがカーの奥さんではないかと突然気づいてからです。相手の男性はもちろんカー本人。

『連続自殺事件』のキャスリン・キャンベルの描写
「二十七歳か二十八歳ぐらいの茶色の髪の女だった……彼女がほとんどおしろいも口紅も塗っていないのに、とても魅力的だということに気づいた。丸い顔には揺るぎない意志の強さが窺える表情を浮かべている。身長は五フィート二インチ、麗しいスタイルだ。ややあいだの離れた青い目、形のいい額、ふっくらしたくちびるを固く閉じておこうとしているらしい。」

『悪魔のひじの家』のフェイ・ウォーダーの描写
「ダークブルーの瞳が、恥ずかしそうに横目で見ている。だが、無邪気さの奥にはある激しさが秘められていた。色白の肌の健康そうな色つや、肩までの長さの輝く金髪、ほっそりしているが丈夫そうな体は、薄手のツイードの旅行用スーツを美しく着こなしている。」

カーは30年以上に亘り小説の中で奥さんとの出会いと恋愛、その成就を描き、愛を再生産していったのです。奥さんへの愛は終生続いたのでしょう。小説は恋愛から始まるその確認手段でした。ルソーの「夫婦が終生仲睦まじく過ごすコツは恋人として過ごすこと」の言葉を、カーは小説において実践し続けたのです。こうして考えるとカーのミステリは一篇一篇が奥さんへのラヴレターではないかと思えてきました。カーの小説世界の新たな面が開けてきたと思います。

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