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夢のはなし。情報と移動をすべての人に届けられたら。

2022年。1月付で異動がありました。4月からに備えたものなので楽しみです。あっ修論……頑張っています、はい。

最近はTwitterやスペースで仕事とかに向けたモチベーションの話を何回かしたけど、毎回断片的になってしまっていたので1回noteにまとめてみる。下書きとかに書き溜めていた話をつなげたものでもある。ちょっとだけ、重い話も含む。

最初に堅苦しいことを書いておくと、本稿は私の所属組織(過去を含む)や研究とはいかなる関係もない個人の意見であると明示する必要がある。完全に個人の意見である。

普段、私は「交通って楽しい!」「コンピュータ大好き」「コンピュータで面白いことをしたい」みたいなノリで生きているように見えると思う。それは実際のところ間違いではない。

だが、モビリティなどへのモチベーションというのは完全に趣味ベースなのでは?かというとそうではない。いろいろと信条のようなものがある。

また、私がときどき触れる「社会や世界を良くできたらな〜」という思いにはわりといろいろな経緯があるし、それなりに試行したこともある。そんな空っぽじゃないよ、ということ。

そういうことで今回はビジョン的な話に絞って話そうと思う。
進路の選定としては「ビジョン」と「技術的なこと・人生設計/キャリアプラン」の2つの軸があると思うのだが、今回は前者。

あ、そうそう。ちょっと不安だったのが、こういう記事を書くといわゆる「意識高い系」として扱われちゃうのかなということ。少なくとも自分ではそうではないと思う。ただ単に好きなものがある。交通と人々の暮らし、そしてコンピュータ。それに関するお話をしていくくらいのノリなので、気楽に読んで大丈夫。

あと、「意識高い」の話に関連して。ソフトウェア系の世界では、ビジョン的な話をすると「ビジョンだけで専門性は空っぽなのか〜?」なんて思われる風潮があると感じている。もちろん「だけ」は駄目だけど、言葉で語ることも大事じゃないかなと思ってる。みんなのビジョンももっと聞きたい。

為他の気概(いた の きがい)

母校の話。

突然なんか圧があるな……いや、そんなことはないので気楽に読んでほしい。念のために言っておくと、筆者にいわゆる何らかの"思想"があるわけではない。

要は人のために何かを尽くす、ということである。私は結構そういうことが好きな方だと思う(^1)。

母校(中高)の建学の精神は「国家社会に貢献しようとする、為他の気概をもった誠実・努力の人物の育成」らしい。途中の見慣れない言葉を除いてはよくある感じだ。

私はスローガンというもの結構が好きだ。たしかにスローガンは形だけかもしれない、口先だけかもしれない。だが、その姿勢を表明するということはとても大事なのである。そこを目標に組織は進んでいくことができるし、その目標に共感した人が集まってくることもある。
もちろん、これは私が言葉が大好きだからあまりに重視しすぎているという傾向はあるかもしれないので、そこを割り引いて考える必要性はあろう。

さて、このスローガンでは為他の気概ということばが大事である。たぶんこれはマイナーな言葉で、ググると母校が一瞬で判明してしまうという問題はあるのだが、せっかくなので触れてみようと思う。

この言葉、どうやら出典は鎌倉時代の「正法眼蔵」というものらしい。特に仏教系の学校ではなく、私が知る限り「戦前の医科専門学校をルーツに持ち、戦後の教育改革により"大学"になった際に同時に設立された」というのが母校の設立の経緯である。医学系の書物などならともかく、仏教系の書物が出典となったか謎ではある。

在学中に校長を務められていた吉川先生がこのあたりの話をWebに公開されているので引用させていただこう。
なお、鎌倉時代の書物となると解釈が複数あるらしいと知人から聞いている。あくまで一つの話として。

赴任以来、(学校名)の歴史をあさっているうちに、原巳冬先生、この方は中学校の創設に当たられた方ですが、原先生が、高校創立当初の板垣政参先生の建学の精神を「国家・社会に貢献しようとする為他の気概をもった誠実・努力の人物の育成」と整理されたことを知りました。「為他」というのは「他のため」ということですが、「正法眼蔵」という書物にある言葉で、「泥だらけになると知りつつも他のために敢えて跳びこんで仕事をする」というような文脈で使われています。出典については○○先生に教わりました。
「為他の気概」は、したがって、「人のため世のために正しいことを果たそうとする信念」ということになります。「基本と応用」に戻りますと、まさに、「為他の気概」こそが「基本」であって、しかも、「君子」というような取り澄ました感じもありません。「和而不同」は、こうして、その「応用」の過程にあるものとして、理解できます。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~yoshikawa/09-03shuryoshiki.pdf より
伏せ字、強調はryo-aによる。校名と在職中の先生の名は伏せた。

在学中は特になにも感じることはなかったのだが、いまの自分はこの「建学の精神」の影響を無意識に受けているのかな、と思うときはある。

「人のため世のために正しいことを果たそうとする信念」とまでいえるかはわからないが、表題のような事をしたいと思い始めた経緯が本稿の話になる。

東日本大震災

※以下、災害に関する記述が含まれる。読者によっては被災時の記憶を想起させる可能性が否めない。読みたくない場合は必要に応じていくつかのセクションを読み飛ばしてほしい。
(以下、東日本大震災、熊本地震、九州北部豪雨、平成27年9月関東・東北豪雨への言及がある)

2011年3月11日、当時は中3だった。
九州・福岡に住んでいたため直接被災しているわけではない。14時台の発災を知ったとき、真っ先に仙台在住のフォロワーの安否を心配したのは覚えている。無事だったとわかったのは夜だった。

いまでも覚えてしまっているものがある。東北にいたほかのフォロワーの「わたしのあいしたひとはうみにのまれてしまいました」という疲れ切ったツイート。安置所に向かったあとだった、らしい。この話はここに書くべきではないのではという気持ちもある。他者に起きた現実を決して「素材」のように使いたくないから。ただ事実として、目にした事実として。ここは消すかもしれない、そのうち。

ただ、それまでどこか遠くにあった、ある種の概念ともいえた「災害による死」というものが、画面越しだが実際に起きている。それも「どこかの誰か」ではなくSNSを通じて知っている人の大事な人。それはあまりにも、あまりにも、なんだろうな、10年以上経っても言葉にしづらい。私が言葉にしてはいけないものだとも思う。

その後、(たしか)高1になって情勢が少し落ち着いたあと、私はちょっと無理はして一人で東北に行った。遠くからものを語る人になりたくなかったと思っていたから。もちろん、それは「被災後に見物に来るような人間」とも捉えることができるわけで難しいところだが、ただ、一度も現地を訪れずに何かを思うわけにはいかないと考えていた。

このとき、私自身はソフトウェアエンジニアリング的にはまだまだ何もできていなくて、Webアプリケーションを書くことができなかった。時代的にはRuby on RailsなどでWeb2.0なアプリを書けているとイケイケで最先端だったのだが、そんな力はなかった。

ただ、Webサービスを中心とした技術が人々を救ったのを見ている。発災直後におけるGoogle Crisis Response、Google Person Finderの立ち上がり、ホンダ・トヨタなどによる「通れた道マップ」の迅速な公開、Amazon「欲しい物リスト」を活用した避難所への寄付。
このとき、情報技術の力というものに対して漠然と憧憬を抱いた。

九州での豪雨、常総市での豪雨

その後、高校生のときくらいから九州では毎年のように豪雨が多発した。きっと今後も発生するだろう。

基本的に母校は好きだが強く非難したい点がいくつかあり、その1つが「とにかく登校を是とすること」である。これが豪雨とぶち当たり、熊本方面・大分方面などへ帰れなくなった同級生たちが多数いた。これは幸いにも当日中になんとかなったのだが、さすがに今は雰囲気が変わって休校判断が迅速に出るようになったと聞く。
このとき私は九州北部における鉄道の運行状況をひたすら黒板に書いていたのを覚えている。誰が読んでいたかは知らないが、情報を可視化して整理する必要があると思っていた。

また、その後、常総市などに被害をもたらした平成27年9月関東・東北豪雨もテレビを通して知ることになった。これは覚えている人も多いだろう。
家が濁流にのみこまれる、電柱に掴まって助けを待つ人がいる。きっと昨日まで平穏だった町が。

こういうとき、「そういうところに住むほうが悪い」という言説がある。確かに豪雨で被害を受けた地域の多くは自然堤防の近く、後背湿地であり、洪水に脆弱な地域である。恥ずかしながら私も、高校で地理をちらっと学んだときはそういう発想にも共感しそうになった時がある。
だが、本当にそうなのか?親や先祖がそこに住んでいた、仕事がそこに立脚していた、家賃と住む場所の兼ね合いでそこになった──人がそこに住むには様々な理由がある。
特に生まれる場所は選ぶことができない。それを安全なエリアから「住んでるやつが悪い」と叩くことは忌避されるべきことであろう。

だから、どんなとこに住んでいる人でも命を守られるようなしくみが要るのであろう、そう考えている。これが難しいのだけれど。
そしてこのとき、「関心を持った者はこれをなんとかしないといけないのではないか」と思っていたのを覚えている。国土交通省の官僚になりたい、という気持ちがこのときはあった。結果的にはならなかった(なろうとしなかった、なるのを諦めた)けれど。

熊本地震

2016年4月、二浪を経て念願の(第一志望ではないが)大学生活を送るべく上京した直後に熊本地震が発生した。M6.5、最大震度7である。
このとき初めて、地震による悲鳴を聞いた。母のものだった。というのも、入学後の手続き諸々に関して、実家と電話をしていたときに発災したのである。震度5弱が観測された福岡市でも、家族は相当に恐怖を感じたようである。

そして、高校の同級生には熊本出身者や熊本大学へ進学した人たちが多数いた。現地の情報がTwitterでどんどん入ってくる。気象・地学に詳しい友人が同級生から寄せられた不安を解消している。私にできることってなんだろう。

一つあった。多言語による交通情報の提供であった。

熊本大学にいた同級生が「県外に避難したい留学生が、情報がなくて動けなくて困っている」と言っていた。私は交通情報の集約と多言語化(日英だけだったが)を実施し、近隣都市などに向かう手段を画像にして送信・随時更新して臨時アカウントへ掲載してもらっていた。当時の画像を遡ると以下のようなものが出てきた。英文が拙いのはご容赦願いたい。

ちなみにこれらの画像はカラーUD的には大いに反省しなければならない。D型色覚の受け手には色で判断しづらいはずである。

画像1

画像2

この情報提供による影響範囲は小さかったと思う。これで実際どれくらいの人が助かったのかもわからない。ただ、それでも社会の課題と私ができることがつながった瞬間だったのかなと思った。

授業: バリアフリー/ユニバーサル・デザイン入門

慶應の日吉の授業でこういったものがある。UI/UX的に面白いかなと思ったので履修した。タイトルがあまりにも長いので以降「BF/UD入門」と称する。

(disabilityを示す日本語として、表記としては「障害」「障碍」「障礙」「障がい」などがあるが、本稿では「障害」と表記する。これはどれをベストとするか統一した見解が存在せず(内閣府資料を参照)、スクリーンリーダでの可読性や社会モデルの観点などから「障害」の表記が望ましいと私は考えるためである。)

様々な障害当事者の方々の講演を聞くというオムニバス形式の授業であった。評価基準が厳しくて受講がとても大変という噂があったため半期しか履修しなかったのだが、ちょっと後悔している(当時の学事規則では4月に年度末までの履修計画を立てねばならず、秋段階での修正ができなかったのである)。

何度も質問をした。偶然に講演者の方と帰り道が一緒になり、障害を抱える人が交通機関を利用する際の困難についても生の声を聞けた。

私自身はユーザインタフェースに対する関心から履修をしたため、他の受講者と比べるとモチベーションがちょっと変だったかもしれない。サインシステムにおける書体(フォント)のはなし、国際化と地域化(i18n/l10n)のはなし、可読性のはなし。
講師や担当教員の先生方にそういう質問をたくさんしてしまった。内容がマイナーすぎて他の履修者には申し訳ないのだが、こういう機会でもないと聞けないなとは思う。

いずれにせよ、ここで見聞きしたこと、学んだことは大きかった。

情報がとどかないということ

母国の街中を自由に闊歩できる私にとって、すべての情報は届いて当たり前だったし、多くの人はそうだろう。ダイヤ乱れがあれば駅の掲示を見ればいいし、必要なら駅員さんに聞けばいい。最近はアプリで運行情報を反映した綺麗な路線図がサクッと開ける。良い時代である。

だが、すべての人がそうではないということをBF/UD入門で痛感した。
視覚がなければ。聴覚がなければ。身体障害によって移動経路に制約があれば。もし日本語が読めなければ。状況がクリアではなくなる。

そして自分が、そして身近な人がいつそうなるか分からない世の中だと思う。誰しも事故など、今まで当たり前に出来ていたことが出来なくなるリスクはある。自分自身もそうだし、家族や友達、大事な人達が自由に移動できなくなる世界は良くない。

ある意味でこれはただの自己満足かもしれない。私にそんな広い世界は見えてないから。単純に私と周りの人の移動が自由であり続けると嬉しい、自分が考えている範囲はそれだけかもしれない。
ただ、それが実現できているとき、いろんな人の移動が自由であるとも言える。自分のためにやっていることが他の人のためにもなっていたら、それはちょっと嬉しい。

そして手元にあったのは、情報技術にまつわる力。

「持ち駒」とでも言おうか、でもこれはそこまで好きな表現じゃない。あるいは「手元にある武器」とか。とにかく、それは人それぞれである。

語学力、コミュニケーション能力、学問に関する能力、人生経験、人脈、何かのセンス。他にも多分色々あると思う。また、これらも細分化できる。

私の手元にあったのは情報技術だった。たまたま親がパソコン教室に通ったことでWindows 98のノートパソコンを手にした少年は、ダイヤルアップ接続を通じて世界とつながった。すぐにその虜になった。

親が寛大だった。いや、幼少期はそうでなかった。かなり厳しかった。厳しかったのだが徐々に寛大になっていった。
謎の信頼を得てフィルタリングなども外してもらい(あまり褒められたものではないが、開発の支障であった)、Adobe製品も入学祝いで買ってもらった。これは今考えると対象が広めの「教育熱心」だったんだと思う。本人は遊んでいるつもりだったけど。

とにかく、そのおかげでソフトウェア開発、デザイン、さまざまな分野で色々遊ぶことができた。自宅サーバも生やしていたし、自宅でCGのレンダリングも回しまくっていた。
きっと当時の中高生としてはかなり恵まれた環境だったし、本当に感謝している。

また、同級生にも恵まれたと思う。情報技術を遊びで使う仲間がとても多く、Android OSのROM焼きなどが流行する異常な高校になっていた。カスタムROMを焼いた端末を学校に持ってくる、放課後はPCパーツショップに通っていた。

なお、その分……といって良いかわからない(全く別の話だと思う)が、海外経験などはなかった。同級生が海外旅行などに行っているような間、私の実家の家計は息子のコンピュータに対して注がれていたのかもしれない。首都圏の大学に出てくると(というか慶應に進学すると)、大半の人から海外旅行どころか在外経験があるような話を聞くことになり、一瞬だけ劣等感を抱いたものだが、ここは「まあでも、うちの家、計算機いっぱいあったしな……人それぞれだよな……」と思うことで事なきを得た。確かに、多分レンダリング用マシンや自宅サーバが回っていた家は少ないと思う。
以降、大学生活で「自分の出自なんて……」と思うことは無かった。人と変に比較しない大事さを学んだ気がする。

とにかくまあ、ここまでの人生で、ランダムな要因によって広い領域でコンピュータを使えるような人間になった。

ここで思うのが、このランダムな要因で得た特性をなんとか社会に活かしてみたいということであった。そして、活かせる場所というのが交通と情報技術の結節点ではないのか、と。

私は基本的にはコンピュータ上の処理のように合理的なことが好きだが、ときどき、本当にときどき「使命」とか「運命」のようなことばを信じてみたくなるときがある。
たまたま持った技術と、たまたま関心を抱いた社会的な課題があって、それらが繋がるなら。それはきっと私が全うすべき役割か何かなのかなと。

わたしが、いまここにいるのは。この時代に生まれたのは。コンピュータを扱うことを奨励してくれた親のもとに生まれたのは。重い場面を目にしたのは。困っている人の声を聞く機会をもらえたのは。

わたしは自分にとって楽しいことをする。
それと同時に、「人のため」の気持ちを忘れないでいたい。
これが両立するとき、そこがきっと「使命」なんだと思う。

もちろん、心のどこかではわかってんだ、そんなもの偶然だって、こじつけだって。みんな似たような経験をしてるかもしれないって。自分を特別って思いたいだけなんだって。

でもね、どうしてもそう思いたいときってあるんだ。そして、その思いが何かを、確かに変えることだって、きっと。

同級生と、いのちを支えるもの。

これはとても漠然とした話。ちょっと話が逸れる。

母校は設立の経緯もあってか、医者のご子息・ご令嬢が多い。素人目に見ると「医者の子供は医者になる」という雰囲気があるし、そういった需要に応えるためか医学部進学に向けたカリキュラムに力が入っていることもあって、母校の医学部進学率がかなり高い。もちろん、彼ら・彼女らは医者になっている。

いわゆるサラリーマン家庭出身で、文系学部を志していたわたしはどちらかといえば珍しい方だったかもしれない。

念の為言っておくと、医師が上とか下とか、はたまた他の職業が上とか下とかはそんなのはない。そういうニュアンスはまったくない。

ただ、事実として、彼ら・彼女らは命に立ち向かっているのである。自分のミスで人の人生が左右されてしまう世界にいる。私はこれを純粋に尊敬している。
(ちなみに私は生物の授業で解剖図を見るのすら苦手だった人間であり、医師には向いていないと思ったので目指しすらしなかった。)

特にこのpandemicの状況下では彼ら・彼女らのような人たちが世界を支えているといっても過言ではない。本当に頭が上がらない。

そんな中、どこかで私も彼ら・彼女らのように「人の命を支えるような仕事」を全うする機会があったらよいなと考えるときがある。コンピュータの世界でも、だれかが担う必要があるものである。
結果的にいま関わることになっている、自動運転・先進運転支援システム(AD/ADAS)周辺はその一つだと思っている。

もちろん憧れだけでは人の命を預かることはできない。卓越した技術と安全への意識、徹底した検証プロセスが必要であり、そこを忘れてはならない。

情報技術を使ってなんとかしたかった。

話は少し戻る。

熊本地震のときに手を動かして強く思ったのが、情報の集約と図示があまりにも大変だということである。緊急時に発表される情報はあまりにもバラバラであり、Webページ(HTML)で発表されるもの、PDFで発表されるもの、画像で発表されるものなど様々である。特にPDFや画像については機械翻訳が通らなかったり、読み上げソフトが対応できないといった問題があるため、情報バリアフリーのためには手作業が必要となる。

これらを集約し、継続的に多言語・バリアフリー対応する側の負担はかなり大きい。この問題は今も解決しているかというと微妙だと思う(良くはなっているとは思うが)。

(実は、災害の度に交通機関から発信された情報を蓄積したりしている。だから良くなってきたこと、あんまり変わってないこと……という部分は継続的に追いかけ続けられているはず。)

受け手も大変だが、災害発生時の現場側も相当に混乱している。だから「とにかくバリアフリーで機械判読可能なデータをよこせ」というスタンスは溝を深めてしまうと思っている。

そこで、交通機関(現場)側にとっても入力が負担にならず情報発信ができて、なおかつ機械判読可能なデータを同時生成するものがあれば良いなと考えていた。

もちろんアイデアへの賛否はあったが、アーキテクチャ的にはインフラ側も含めて結構詰めた資料があり、後述するように話を持ちかけたことが何度かある。

交通の現実、大人の事情。

学部からの研究では交通オープンデータの世界に飛び込んだ。とてもいい先生方、現場の方々が多い。たくさんのことを学んだ。

それと同時に、「現実」ってものを思い知った。国内企業や一学生のアイデアだと動かないんだ、これ、多分。
要は利害関係があまりにも多すぎる、大人の事情の塊であった。これだけで多分10本くらい記事ができる。

ただ、これを乗り切った例が一つある。Google Mapsである。あれほどまでに"DX"やオープンデータ化に乗り気でなかった交通事業者ですら、世界中で圧倒的な利用者数を誇るGoogle Mapsに掲載するためならばとオープンデータ化に舵を切った。そうすれば乗客が増えるから。
なるほど、やはりBig Techなのね、そういうプラットフォーマーからじゃないと世の中って変わんないんだな、と。

それを目にしたとき、アカデミアではなく別の切り口(情報技術やモビリティにおいて影響力のある企業)から夢に挑みたいなと思い始めた。そのため、この分野の研究としてやるべきはずだったことはかなり曖昧になってしまった。お世話になった方々、本当にごめんなさい。ご恩はいつか絶対返します。
私の手段は変わるかもしれませんが、「移動」というものをよくしましょう。この気持ちだけはブレませんので、待っててください。

この夢は非現実的って?それは知ってる。

社会をよくする、世界を変える、みたいなのってきっと青臭い夢で、それはよくわかっている。ある意味空っぽな言葉で、適当に言ってる人も多いと思う。

だからこういう話をすると「若いねえ」とかいうリアクションもあるし、逆にいま26歳だし「この年齢で言うことか?」とは思われているかもしれない。

10年後これが黒歴史になってる可能性だって普通にある。もしかしたら目を背けたくなるかもしれない。

それでも、私は情報技術が世界を変えた瞬間をいくつも知っている。
あるデバイスの登場で、あるソフトウェアの登場で、あるアルゴリズムの登場で、社会は大きく変わった。
敢えて「ある」と書いた。これに思い当たるものは読者に委ねたい。どうだろう、私が、そしてあなたが、それを作り出す側に立てないと言い切れる理由があるだろうか。私は信じるよ。私だって、あなただって、世界って変えられるんだって。

でもそんな簡単じゃない。簡単に世界なんて変えられてたまるか、という話ではある。

自分のアイデア・テーマはIPA未踏にも投げた、これを持ってある大学院の研究室訪問をした。だがどちらもポジティブな反応はなかった。

「交通事業者との調整が難航する」
「事業者ごとによる事情がある」

わかってるよ、そんなこと。わかってんだって。だから変えようとしてるわけじゃん、そこに挑むことはだめなのかな。

もちろん、私が持っているアイデアを否定されたということは改善点があるということ。そこは受け止めないといけない。だから戦略は練り直して、このままのアイデアで突き進むことは一旦やめた。一旦、だ。まずは別の形で目標を達成しようと思った。情報と交通の関わりはそこだけじゃない。

いずれにせよ、移動と、それにまつわる情報がすべて自由となる世界が好きだし憧れる。思い立ったらどこにでも行ける世界。運行が乱れても、利用者からスムーズに見通しのつく世界。そういう世界が来ると良いと思う。どうしようもない"大人の事情"だって沢山あるけど、挑むだけの価値はある世界だ。

ある詩の一部を思い出した。

私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。
(中原中也、「無題 IIII」(「山羊の歌」より)より抜粋)

もちろん「おまへ」(モビリティと世界)のために文字通り身を棄ててしまっては元も子もない、ワークライフバランスなどは最重要だと考えている。だからこんな姿勢で向き合う、というわけではない。ただ思い出しただけ。

完全に余談だしプライベートな話だけど、思い出したので書く(普段こういうことは書かないんだけどね)。こういう覚悟で恋愛をして結構ズタボロになったことがある。身を捧げるってね、物語としてはきっと美しい。でも、現実として身を棄てるようなことよくないんだと思う。自分自身を維持できてこそ相手を持続可能に支えられるものなんだろうな。「尽くす」なら健康的に。これは人間関係からの教訓だけど、お仕事でも一緒だと思う。

──でもどこかで信じてたりもするんだよね。身を棄てないで素敵な「物語」を描けるような人生、みたいなもの。ちょっと憧れるな。それが人間関係なのかお仕事なのか、そもそもできるのか、まだわからないけれど。

実はそういう、ちょっとロマンチックめいたお話は好きだったりする。似合わないかも。意外だったりするかも。それとも意外とバレてたりするのかな。
でも、まあ、これはここだけの話。内緒。次のセクションからは忘れて読んで。

それでも、大きな夢を掲げていいということを知って。

あるCMが好きだ。2018年のカローラスポーツ、新型クラウン発売時のCMである。

そう、私の思い描く世界はきっと「妄想」だ。情報がこのように整理されればよい、こういうアーキテクチャが使える、可用性を高めるにはこうすれば、ユーザビリティを高めるには。これらは私が描いた妄想である。

だけど、その「妄想」だって悪いことじゃない。「妄想」というネガティブな言葉にポジティブな意味を与えた(代理店の)人が、そしてそれをプロモーションとして展開しようとした人がいる。いいじゃん。

また、この自動車メーカーは別のCMではMovement is a human rightなんて言い切っている。そう、移動はすべての人の権利である。失われてはいけない。ちゃんと言い切るところ好きだよ。

こうして、よくわからんでっかい夢を持ってもいいことを、そして似たような夢を掲げている人達がいることを知った。

私は言葉が好きだ。スローガンが好きだ。そこには意志が反映されるから。
だからこのメーカーの姿勢に惚れたのかもしれない。

もちろん言葉だけではだめだ。実効性が必要なのである。言葉だけでは詐欺師のようなもの、と言われても仕方がない。
私は自分が何らかの強い意志で放った言葉は実現しないといけない、最低でも実現させようと足掻く必要があると思っている。

そこで出てきたのが2020年のCES、あの発表である。工場跡地に実証実験のまちを作る。また、MaaS用の汎用車両も作るという発表(2018)も既にあった。

ああ、この会社は本気なんだな。きっと覚悟があるんだ。私のアイデアとは違うかもしれない、でも、何か「すべての人のための交通・交通情報」に携わることができるんじゃないか。

行ってみたい。

だからアカデミックなバックグラウンドの不利などは無視してその会社のR&Dをやる某社にapplyした。
ちなみに応募過程でこういうモチベーションの話はほぼ……なんなら全く出していない。純粋にこういう技術があります、もちろん技術的な理解も深いですよ、チームと協働できます、というかなり一般的・冷静な話をしながら面接などに臨んでいたと思う。

その結果、part-timeとして2020年夏に採用してもらった。そしてfull-timeとしての2度めの応募でも2021年秋にofferをいただいた。

そして、夢を言っていいということを知った。

もう1回言っておくと、本稿は所属とは関係のない個人のnoteである。

そうして「弊社」になったところのWebサイトにいま載っている表現が好き(^2)。HRとPRチーム、いいセンスしてる。

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そうか、ここでは夢、言っていいんだね。

わたしは世界を、変えたい。
移動を情報技術の力ですべての人に届けたい。

──そういえば、アシスタントとして入って日が浅い頃。ある新しいシステムのある設定に苦戦していたとき。当時の上司から言われたことを覚えている。

"Now you are leading the world."

もちろんジョークかお世辞かもしれない、褒める文化だろうし。それでも、それでもわたしはいま、そんな言葉が出てくる場所に居るんだ……居ていいんだって思った。ちょっとだけ泣きそうになった。

来たよ、やっと来たよ。世界を、もしかしたら世界を変えられるかもしれないところに。そしてその夢を言っていい場所に。もちろん、まだ始まったばかりだけど。油断してはならないけど。研鑽を積み重ねていかねばならないけど。それでも、スタート地点としては良いはずだ。

本稿に書いてないものもあるが、ここまでの進路は本当に迷走してきた。どう考えても最短ルートではなかった。浪人はした、専攻も適合しなかった。それでも、それでもわたしがここまで(偶然かもしれないけど)積み重ねてきたものが、少しずつ繋がってきた気がした。

だから言葉って、夢って、思いって大事なんだよ。きっと。
もちろん、叶わないこともあるけど。言葉にする意味は絶対にあるんだって信じてる。

この先について

お仕事の具体的な内容についてはあまり私の口から言えることはない(それはそう)。なにかプレスリリースとかメディア露出とかで見せられるときが来るといいな。

今まで描いていたオープンデータを軸にした世界とはちょっと違う、でも何か、夢と繋がるところがちょっと見えているようなものを感じている。

よりよい世界をつくりたいし。これはさっきも書いたけど、周りの人のため、わたしのためでもある。
そのために色々動きはじめることが出来た、という雰囲気にある。

次の夢もまだ色々とある。まだ言えないものもある。

今回はこのへんで。

ref

^1: 当たり前だが、望んでいないのに押し付けられたタスクを巻き取るようなことは好きではない。あくまで自分が望んだこと、というのは大前提だ。
^2: Yes, of course... That's why I'm here!、なんて言いたくなってしまうよね。

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