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文を書くこと、ことばを紡ぐこと。その1。

わたしは文を書くのが好きだ、ということはあまり人に表明したことがない。したっけ。しなくてもわかるかもしれない。
逆に、テクニカルライティングなどで必要に迫られて長文を書いているように見えるかもしれない。

まあ、とにかく文章を書くこと自体は好きなのである。

家系なのかな

母も、母方の祖父も文を書くのが好きである。祖父はわたしが生まれる前に亡くなってしまったため実感はないのだが、新聞記者になりたかったとか詩集を読むのが好きだったとか、人のラブレターを代筆したとかそういう話を聞いている。

遺伝するものではないと思うが、似たものが受け継がれているとは思う。

ちなみにわたしも最近、友人のラブレター(失恋覚悟で最後に捧げるもの、という話だった)の文案を手伝ったことがある。自分がそういうものを書くことは不慣れなのだが、他人のものだと客観的に書くことができる。結局、それは「最後に捧げるもの」とはならず、成就したらしい。めでたいね(いいなー)。

これは、わたしのある種の趣味だということ

決して「わたしはこのように言葉を選んでいるから、あなた(みんな)も同じようにしなさい」ではない、ということである。このnoteは、あくまでわたしが言葉を選ぶ基準を書いているにすぎない。むしろ、この選定基準が他者にとっての制約になってしまわないことを願っている。

そもそも、わたしがそれを好きなだけ(つまり趣味)であって、他の人がそれをしていなくても何も思わない(流石に攻撃的な言葉選びをされると厳しいが、これはわたしに限ったことではないと思うので今回は別としたい)。他の人に求めるようなものではないと思っている。

もしかしたら洋服を選ぶことに似ているかもしれない。「この組み合わせなら私を一番素敵に見せられる」「この場面はこの服なら無難かも」「好きな人に振り向いてもらいたいからこの服で頑張るんだ」「他人がどう思うかは知らないが、とにかくこの服を着たい」などのように、衣服の選択にはTPOに基づいたある種の「正解」だけでなく、個人の感情が関係している。選択者自身は口に出さないにせよ、なんらかの理由があるはずだ。一方で、他者の服はTPOに反しているとか、とても汚れているとか、よほどの事がなければ「なんでこの服なんだよ」と思うことはあまりないだろう (^1)。

ただ、それでも「文章が好き」「言葉選びが好き」といったことを言われるととても嬉しい。これは服選びと一緒だと思う。数年前、わたしの言葉を褒められたことがある。それまでは文章を出すことが怖かった。その経験があるから、わたしは怖がらずに文を書けるのかもしれない。この話はまたどこかで。

認知負荷、ことば選び。

前職では教育系ライティングにおいて「教材文章における認知負荷を下げるべきだ」とアドバイスをもらったことがある。これは厳密な意味での認知負荷(congnitive load)の話ではなく、「誤字や脱字、奇妙な表現があったらそこで引っかかってしまって学習者が進めない」といったニュアンスで使用していた。
教員の発言や教科書が明らかな誤用・誤字が含まれたまま授業が進行していると、モヤッとした何かが脳の片隅にある状態になる――ということを経験した人も多いのではないだろうか。あの現象を無くしたいというわけである。

また、人によっては不快に感じるような喩えを避けるようなことも注意の対象となる。これらにはイリーガルなものを想起させるもの、セクシュアルであるもの、差別を含むもの、などがある。たとえば大学などで、比較的年配の方が行う授業などでこれらに遭遇してモヤっとした経験を持つ人もいるのではないだろうか。そういったものを無くしたいというのがある。この閾値は人によって違うため、かなり難しい。

この発想はわたしの日々の文章や発言にも影響を強く与えているため、誤用はかぎりなく少なくしたいと思っているし、不快感を感じる比喩などを避けたいという気持ちがかなりある。もちろん、わたしが何かの言葉を誤用してしまっているなら自分で気付けないし、知らないうちに人に不快感を与える感性を持っているかもしれないという懸念はあるわけだが。

響き、表記、順序

わたしは響き、表記、順序を考えるのが好き。可読性と、感覚的なものの両方のねらいがある。

わたしは短歌が好きだ。より範囲を絞ると、現代口語短歌の表現が好きである。さほど詳しいわけではないので多くを語ることはできないが、穂村弘以降の世代の歌人といえばよいだろうか。
わずか31音で世界や感情を表現をする短歌の世界では、いろいろな技法がある。現代短歌は特にそれが盛んで、七五調の定形に収めるかそれを破るか、どこで区切るか、句またがりをするかどうか、記号を配置するか、などなどがあるように感じている。詳しいことはプロの解説を読んだほうがいいのでこの程度で。

こういった世界では、同じ音数のことばでも初句に置くか倒置的な表現を使って三句に置くか……で大きく印象が変わる。ひらがなで書くか、漢字で書くか、あるいは通常とズレた漢字表記をするかでも印象は違う。そういうことだらけである。これはなんとなくわかるのではないかと思う。

短歌の例は極端かもしれないが、通常の文章でもこういう要素があると私は信じている。

たとえば固有名詞がひらがなで始まる場合。例えばこれは個人の名前・ハンドルネームや団体名などが当てはまる。そういった文章に繋がることばを選ぶときは漢字表記を優先してかな・漢字のリズムが発生するようにしている。にほんごのぶんしょうはわかちがきをしないためもじのしゅるいでりずむをとることでかどくせいをもたらしているからなんですね……というのは冗談としても、文字種の違いがリズムをもたらしている言語を使う以上、気をつけている点である。

あとは想起させるものも気をつける。これは「言葉狩り」にもなるかもしれないから難しいところだけれど、文意と逸れて過剰にネガティブな事象が想起されうるワードを排除することもある。

順序や響きの話題は具体的に説明するのは難しいので、いずれ思いついたらまた書こうと思う。

それと、いくらか例示をしてもいいけど、わたしが紡いだことばの手の内を明かすような気がしてまだちょっと抵抗がある。企業秘密ってやつだ、たぶん。
ただ、まあ、直接「この文章のこの表記、どういう意図があるんです?」と聞いてくれたらわりと答えられるはずなので、気になったら聞いてもらって大丈夫である。

ref

脚注機能がないのだけは不便かな、note。

^1: もちろん、「一緒に歩く恋人にこういう服を着ていて欲しい」とかはあると思うけど。

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