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なんと悲しい言葉だろうか

・ジメジメする季節になった。


・主に季節の悪口を言うことを主な目的としているアカウントなので沢山書きたいことがあるのだが、悪口は対象だけでなく自分にも牙を向くということが生きていると段々わかってきたので、多くは語るまいとしましょう。


・洗濯どうすればいいんだ。





・文字を打っているとどうしてもタイピング・ミスというものに出くわす。

・「まったく」を「またっく」と書いてしまったり、「やはり」と打つつもりが手が滑り「たはり」と打ってしまったりする。「洗濯」と打とうとして「選択」と誤って変換してしまう場合もある。

・多くの場合は間違いに気づき、即座に修正する。英語入力では変換候補として正しいスペリングがサジェストされる機能で、ミススペルを未然に防がぐこともできる。日本語の場合でも、よく使う言葉が優先的に候補に挙がることにより同様の効果がもたらされる。



・時々そのミスタイプを意識的にそのままにしておくことがある。自分にとってそれがある種の誠実さであるように感じられるからだ。

・特にラインなんかでほぼリアルタイムの会話と同じような速度感でレスポンスを返しているような時は、特にそうしたくなる。できるだけ早く返事をしたいというのももちろんあるが、それよりも「”このやりとりは現実空間での会話と同じようなルールで行われています”ということを表面化したい」という意味合いが強い。現実世界で言い間違いをした時はすぐに言い直すことが可能だが、その言い直す前のミスももちろん聴取者に届く。ミスが、その修正が、ログとして残る。
 だからこそ、我々は続く言葉の語調やテンポを微妙に変更することによって、恥じらってみせたり、言い間違いによって失われかけた”言わんとすること”を補強しようとしたりする。それに対応して相手も、頷きや笑み、苦笑、あるいは完全な無視によってそれを受け入れる。そこに無言の同意と承認が生まれることで、我々は対峙する存在から、共に会話を作り上げる共同作業者に変わる。そうすることで絆や愛を育んでいく。タイピングではそうはいかない。

・一度でも校正の手順を踏んでしまうと、言葉としての鮮度は一瞬で失われる。私が放った返信は、結末を知った上で何度もやり直しのきく文字列の最終稿ではなく、今この瞬間に放たれた生きた言葉である、ということを可視化するために、あえてミスタイプを修正せずに送信するのだ。

・時々、打ち間違えた文字を消した後、いややっぱりともう一度そのミスタイプを打ち直して送信することもある。これに関しては、自分でも何をやっているんだと思う。し、余計に不誠実な気すらする。



・文章を書くという行為に、思考の整理や体系化という意味がある限り、この種の「衝動の再生産」とでも呼ぶべき行為はどうしても必要になる。起点となる小さな、しかし核心めいたものを内包したアイデアを具体的かつ論理的な文章に受肉していくことで、考えは強固なものとなっていく。だが推敲の過程で当初の目的を見失ったり、破綻に気づくことが世の常だ。そのたび最初の発端に戻って再考する必要があり、無理くり当初のアイデアの持っていた熱量の再生産が必要になる。
 だが、向こうに特定の人物がいる場合、その”再生産”は時に不誠実なものと化す。現実空間での対話において、人は考えを整理し話すべき言葉を選ぶため立ち止まる。そして時折、沈黙の内部で嘘をつく。都合の悪いことは語られないことで抹殺され、その位置には利己心が入り込む。次に言葉を発しようと思う時、整理された思考の中からレスポンスとしてふさわしいものが選ばれ、再生産される。もちろん、都合よく編集されて。
 その過程を経て放たれた言葉は、不要な問題を起こさないかわりに意味にかけ、無益である。そのような会話には深い関係性を産まず、互いに敵意がないことの確認に終わることが多い。文章におけるやりとりでは、現実空間の会話よりもこの一連の流れが助長される傾向にある。


・ここまで書いて文章を見返したらめちゃくちゃ誤字脱字が多くて流石に書き直してしまった。Honesty, such a lonely word、である。


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