何で今ここ(ベルリン)にいるのか、というか言っちゃえば、何でまだ生きるのか

 2ヶ月ほど前からワーホリでドイツのベルリンにいる。渡航前には「何でドイツ?」「何しにいくの?」「すごいね!」「ワクワクするね!」「楽しんで」「応援してる」来てからは「何でドイツ?」「来たばっかりなんだ!ワクワクするね!」「いっぱい遊んで楽しんで」「頑張ってね」といろんな言葉をもらって、その度にそれなりの現実を含んだ、よそゆきの返答をした。ドイツは学費が安いから。進学がしたくて。向こうで映画作りもしてみたい。ありがとう。楽しみです。頑張ります!でも実際のところ、前向きな理由なんてなくて、楽しみでも、頑張りたくもなかった。私は日本に生まれ、特に豊かではないがすごく酷でもない環境の中で細々と生きてきたが、もう何も頑張りたくない、疲れた、生きてるだけでしんどい、電車に乗りながら、一人で道を歩きながら、または部屋の中にぼんやり座り込んで、全てが嫌で嫌で涙が止まらなくなることがたくさんあった。(そもそも子どものときから、朝起きて学校に行くことや、夜、次の日の準備をすることがしんどかった。外から帰ってきて一回座ると、疲れがどっと出て、そのまま動けなくなることも多かったのを覚えている。元々体力がなさすぎるのかもしれない。とにかくスタート時点から私にとってこの世界で人間として社会生活を送ることは過剰な負担だった。)そしてコロナ禍、突き詰めて書くと長くなるので省くが、人生に対する悲観がさらに深まった。こんな大変な世界を、こんな寂しさを抱えながら生きるって無理ゲー、死のう。「いざとなったら自分で自分の人生を終わらせられる」という事実は希望だった。でも、私は本当に、自分の力を既にもう全て出し切って、それでもだめだった、と言えるのか。自分を助けるためにできることをすべてやったと言えるのか。答えはノーだった。そこで、「二年後の誕生日に死ぬから、それまでに全部出し切ろう」という目標を掲げた。

 そうこう孤独な自粛生活を送っているうちに、とあるブログに出会った。既に有名な人だが、ガメ・オベールさんというイギリス出身の筆者が、すごく豊かな日本語で書いているブログだ。ガメさんは、日本の社会、日本語世界が今どれだけ壊れていて、その中で生きることが困難であるかを語り、そこから脱する方法として「会社勤めはやめ」「なるべく節約して、生活できる最小限の仕事だけをするようにして」「暇な時間は公園で本を読もう」、そうして、できることならそういう生活を海外で送るといい、と説いていた。(今こうしてかいつまんで書いてしまうと、めちゃくちゃだとか、無責任なこと言うなあと感じる人もいるかもしれないが、私はガメさんの文章がとても好きだった。腑に落ちる部分もあるし、何より根底にある、失意にある人への愛と励ましに、読みながら涙が出ることもあった。)それで、「死ぬ前にそういう時間を自分へ与えてみるのもいいなあ」と思ったのだった。

 そんなこんなで今ベルリンにいる。死のうと決めてた〈二年後〉はとっくに過ぎた。まだ生きている。まだ幸せではない。いま、あなたが幸せなのか、苦しいのか、それはひとえにあなたが今どう感じているか、それによってのみ決まる。客観的にどれだけ恵まれた環境にあるとしても、体から喜びを感じていないなら、無理に意識を変えようとすることはない。逆もしかり。私が「つらい、死にたい」と言って、その特に理由はないけどデフォルトで死にたい気持ちが普通にわかる人もいるし、「なんでそんなにつらいの?何かあったの?」と思う人もいる。幸、不幸はあくまで状態であって、理由はない。分析はできるかもしれないが、結局感じていることが全てだ。
 私が今わかっていることは、私がまだ苦しさを抱えていること、それに対してできることは、自分に小さな喜びを与えること…美味しい食事を用意したり、音楽をかけたり、部屋を綺麗にしたり、いい匂いにしたり…映画を観たり本を読んだり…そして、現実の不安が一つ一つ解決されていくように、毎日少しずつ行動していくこと、風邪をひかないように体を温めて、たくさん眠ること。それぐらいしかないけれど、そういう実践が大事なのだと今は学んでいるところだ。結局根本的な寂しさや苦しさから自分を救うことができなくて、結局泣きながら、生まれてきたことを恨みながら死ぬとしても、自分はよく頑張ったと多少の感謝はできるのではないだろうか。毎日不穏な夢を見る。毎朝めざめると、ああ、今日も生きなきゃいけないのか、と思う。今日はいい一日を送れるだろうか。自信がない。海外にいるから不安なんじゃなくて、日本にいる時から。でもどうせ死ぬんだから、それはもう決めたのだから、その日が今日でなかっただけで、合格だと思おう。

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