「ジョーカー」と「パラサイト」とおれ
※「ジョーカー」「パラサイト」の若干のネタバレがあります。
世は格差映画ブームであって、「ジョーカー」や「パラサイト」なんかがその代表であろう。おれはこのふたつの映画を双方見てどちらも感動した。
見ている最中は、ジョーカーや半地下の家族に感情移入をしていて、ふざけんな格差、立てよ貧民、やつらをぶっ殺せなどイキったテンションで見ていたのだが、見終えて賢者タイムに入った瞬間、おれは気づいた。ジョーカーや半地下の家族に撃たれ刺される〈やつら〉のなかに、おれもいることに!
おれは金に困ったことがほとんどない。新卒で入ったクソ会社に経済的DVを食らっていた最初の3年あたりに貧乏だったくらいで、あとはずっと普通の生活水準を維持している。それはまあ家庭が学習環境を与えたこと、たまたまエンジニアというパイのでかい成長産業に潜り込むことができたこと、飽食の街TOKYOから出ないこと、そもそも金のかかる趣味がないことなどがでかくて、おれの努力もあるのだろうが運の要素も強い。ここには書かないが、自己実現もまあまあできており、いろいろ大変なこともあるのだが、客観的に見たらいい人生なのではないかと思う。
それがなんだ、映画を見ている最中は貧民サイドに立ってあいつらをぶっ殺せとか言っていたのである。貧民でもないのに。ジョーカーに憎まれ殺される、ロバート・デ・ニーロ側の人間なのに! 映画って、本当に恐ろしいですねえ!(発狂した淀川長治の声で)
ということで、このふたつの映画は見終わったあと、どう処理すればいいのかに悩んだ。とてもジョーカー側に立って殴れ刺れ犯れ殺れ壊っちまえーーーー!!(©梅澤春人『無頼男』)など無邪気なことは言えない。ジョーカークン、君のつらさは分かるよ……などと胸襟を開くのもおこがましいだろう。「じゃあお前の家に住まわせろ」と半地下の家族がやってきたら、絶対に消臭剤ぶっかけてしまう人間だからだ。
むしろジョーカーがおれの前に現れたとき、おとなしく殺されてあげるのが誠実なのかとも思ったが、ジョーカーはそんなもの求めていないだろう。となると、ヤッパ持って殺し合うしかないのだろうか。おれは喧嘩などしたことがない。中央線で変なオッサンに絡まれたときは「てめえ表出ろよ」と小声で言ったのだが小声すぎて聞こえなかったのだ。ジョーカーと殺し合うのなんて無理であるが、殺されるのも嫌である。どうすれば!
ここで思い出すのが、黒澤明の『天国と地獄』である。あれの犯人はドヤ街に住んでいて、毎日丘の上の豪邸を憎みながら見ていた。上級国民ふざけんなとばかりに豪邸の子供を誘拐して精神的攻撃を加えてみたはいいが、物語が進むにつれて丘の上に住む金持ちにも金持ちなりの悩み苦しみがあり、自分と同じ、浮世でもがきあがいている人間であることが分かるのである。くそーーーーーーっ!!
というわけで、中産階級おれにはおれの苦しみがあるし、上級国民であるロバート・デ・ニーロにも韓国社長にも飯塚幸三にも竹中平蔵にもきっと苦しみがあるのだろう。ぼくらはみんな生きている、生きているから苦しいんだという点で全人類団結できるはずなのだが、どうなんでしょうねえ。地球幼年期が終わるのを待つしかないのだろうか。ガラにもなく難しいことを考えてしまった映画体験であった。
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