朗読劇「やがて君になる 佐伯沙弥香について」について。

※本記事には朗読劇「やがて君になる 佐伯沙弥香について」のネタバレが含まれます。及び、本感想は取り分け舞台に造詣が深い訳でもない、一般人の筆者の主観に満ちたものであることをご理解ください。

あれは紛れもない舞台だったのではないだろうか。
公式の告知や設定の上では朗読劇であったのかもしれない。公式は今回の劇をTwitterで「ほぼほぼ舞台」であると表現した。まるで舞台のようではあるが、あくまで朗読劇、ということだ。しかし私は、あれは完全に舞台そのものであったように感じた。

語弊を生む表現をしているので、ここで注を入れておく。これは自分が舞台と朗読劇というそれぞれのものを本質的に理解していないが故にもたらされている感想だ。自分の中で舞台と朗読劇にもちろん大きな差があるというのはわかっていたが、それは漠然とした言葉での表現(地の文の有無であったり身体を使った大きな表現であったり)しか出来ず、本質的な理解には一切到っていなかった。
そこで、私が何となく浮かべていたイメージが、「舞台の方がよりその作品の世界の中に入り込める、朗読劇じゃ舞台のそれ程は無理だろう」だった。
要するに、朗読劇というものを見下していたのだ。
そう思って公式Twitterのあのツイートを見た私は、「なるほど、舞台を観ていると思えるほど作品に入り込める、そんな自信のある作品なんだな」と考えていた。

突然だが話は変わる。周りのオタク仲間から、2.5次元のアイドルコンテンツのライブに参加した時、「MCのパートいらねーんだよなー」と言った声を聞くことがある。自分はMCパートもキャストのキャラや歌に対する思いが伝わってくるので好きだが、どう思うかは人それぞれだろう。彼に訳を聞いたところ、「せっかく作品の世界に入り込んでライブの鑑賞ができるのに、MCだと中の人が見えて現実に引き戻されるから」とのことだ。
彼の言い分もよくわかる。ライブをしている時、ステージの上の声優はキャラクターの衣装を身に纏い、キャラクターの声で、キャラクターと同じ振り付けをする。もちろん2次元世界のキャラそのものになることは不可能だが、キャラクターと同一視することは難くないし、演じる人の再現度によっては勝手にそのキャラに見えてくることも珍しくない。しかしMCの時は、そのキャラを演じる人間としての感想を述べる。この瞬間、彼の抱いていたそのコンテンツの世界というものが破綻してしまうのだろう。ライブに何を求めるかは人それぞれだし、彼が求めるところがその世界に入り込んでライブを楽しむところにあるのなら、その理論ももっともなのかもしれない。

要は何が言いたいのかと言うと、その作品の世界観に入り込む上で、どうしてもキャストの人間性は邪魔になり得る、ということだ。どんな作品のどんなキャラクターとどんなキャストであっても、キャラクターとキャストは乖離した存在である。キャラクターとしての側面を見続けない限り、客側には作品の世界から離れた瞬間が存在してしまう。

その「作品の世界から離れる瞬間」が一瞬たりとも存在しなかったのが、今回の朗読劇「やがて君になる 佐伯沙弥香について」だった。

朗読劇の内容は言うまでもなく素晴らしく、佐伯沙弥香を演じる礒部花凜さんの演技は、佐伯沙弥香という人物の核心を間違いなく根底から捉えたものであり、それを見ていた自分はキャラとキャストの乖離、自分が知っている佐伯沙弥香との解釈の不一致といったものは一切存在せずに物語は進んで行った。それは他のキャラクターについても同様で、まさにその作品の中にいるようだった。

ところで、自分は今回会場に着くまでずっと悩んでいたことがある。それは、「地の文はどのように処理されるのか」だ。
今まで自分が観てきた舞台というものは、観客は三人称視点から作品の世界を見ていた。物語は会話文を通じて紡がれ、演者は台本に書かれたキャラクターの台詞を読み、それに応じて話が進んでいく。まさしく「台本形式」なのだ。地の文といったものは存在せず、故に、それを読む者もいない。どの登場人物の主観も、等しく平等に表現されず、代わりに演技でその心情を表す。事実の羅列の中で、言葉ではなく、キャストの演技で感情を補完する。特別に重要視させたいキャラクターの回想や独白パートなどを例外として。
対して今回の朗読劇の題材「やがて君になる 佐伯沙弥香について」は、佐伯沙弥香を主人公に据え、彼女の見た世界を彼女の視点から描いた一人称視点の小説である。一つ一つの事象に対し沙弥香は何を思ったのか、彼女の主観100%で物語が進んでいく。これでは一体、舞台の上ではどのように物語が進んでいくのだろうか、とずっと考えていた。

結果としては、多くの地の文はナレーターとして役を充てられたキャストに読み上げられ、中でも沙弥香の本質に迫る重要な部分では、照明などを使って「明らかにこれは物語の中の実際の時間ではない」と明示した上で、佐伯沙弥香を演じる礒部花凜さんが読み上げたりしていく形であった。なんとなくこのような形になることを予想はしていたが、そう考えてみると少し違和感を覚える点があった。
今回の劇の中で唯一、礒部花凜さんがずっと地の文を読み続けた部分がある。それが、沙弥香の小学生時代、水泳教室での名前も知らない女の子との出来事である。
何故あのパートは全て礒部花凜さんが読み上げたのか。原作小説第1巻の半分にも満たない前半部分だけであったとはいえ、その後の彼女の台詞の量を鑑みれば、ここでもナレーターが用意されてもおかしくはないのではないか。しかしそうはいかなかったのは、この部分が劇中で唯一、佐伯沙弥香の「回想パート」であったからだ。

中学2年生以降の柚木先輩とのパートも、高校入学後の燈子とのパートも、その作品の中のリアルタイムで起こっていることだ。しかしあの水泳教室での一件は、どのタイミングかは明確ではないが、あれを経験として経た佐伯沙弥香が回想として思い返していたパートだと解釈できる。そして、あのパートの中での言葉は全て佐伯沙弥香自身のものである為、全て礒部花凜さんが読み上げたのではないだろうか。

その後のパートでの地の文も全て佐伯沙弥香の抱いた感想、佐伯沙弥香の言葉だろう、というのはよくわかる。しかしここで、そのパートが回想によるものなのかその瞬間のものなのか、が重要になる。
例えば、この文を読んでいるあなたが、付き合っていた彼女から突然別れ話を切り出された時のことを考えて欲しい。普通は頭の中が真っ白になるだろう。前々から何となくその予感がしていたとしても、頭の中に浮かぶ言葉はせいぜい「やっぱりな」とか、その程度だろう。よもや、その時の別れの言葉を口にする彼女の様子であるとか、2人を取り囲う環境の変化であるとか、そんなものをいちいち頭の中で言語化している余裕はないはずだ。
それを可能にするのが「回想」であり、相手から何かを言われた「その瞬間」は基本的には返事の言葉以上の言葉は頭の中にはない。

脱線が長引いてしまったが、水泳教室での出来事の回想パートのみ全て礒部花凜さんが読み上げたのには、こういった事情が絡んでいるのではないか、と観劇しながら推測していた。中学生以降のパートの地の文を全て礒部花凜さんが読むのは物理的に不可能だろう、というのももちろんそうだが。

ところで、物好きなあなたにはここまで駄文を読んでいただいて感謝も一入といったところだが、わがままな私はあなたにある事に気づいていただきたい。
地の文を読むのが回想であるのなら、中学生以降のパートでも地の文はあるじゃないか、これも回想なのか、お前はさっき「その瞬間」とか「リアルタイム」とか言って対比させていたじゃないか、と。

その答えこそが今回自分が最も強く主張したかった部分であり、冒頭の突飛なキャラとキャストの乖離の話題と噛み合う部分である。

自分で用意した先の自分への反論の答えは「YES」だ。先程までの自分の表現は全て誤りである。この劇では、中学生以降のパートも全て、「高校3年になり、小糸侑の元へと向かう七海燈子を見届けた後」の、佐伯沙弥香の回想パートなのだ。

少し考えてみれば当然と呼べる事実かもしれない。しかし私は、この事実を思いもよらない形で答え合わせをすることとなり、この朗読劇というものの底知れない魅力に感化された。

カーテンコールだ。

台本に書き上げられた台詞を全て読み上げ、演目が終了し、キャストが一列になって客席へ向かってお辞儀をし、幕がおりる。客席からは拍手が起こり、一向に止む気配はない。鳴り止まない拍手に応じるようにキャストは再び部隊の上へあがり、カーテンコールが始まる。

自分が今まで見てきた舞台では、カーテンコールで舞台の上に立っているのは、キャラクターではなく、そのキャラクターを演じた各キャストだった。声色が変わり、立ち振る舞いが変わり、そこに立っているのは、生身の人間だ(アサルトリリィ League of Gardensで安藤鶴紗を演じた紡木吏佐さんの豹変ぶりはよく印象に残っている)。
今回も自分が今まで観てきた舞台の例に漏れず、キャストからの感想であったり、残すところ何公演であと少し頑張りますとか、そういった話を聞く心構えでいた。

ところが、そこには再び、佐伯沙弥香が立っていたのだ。

そして一言、「本当に、ありがとうございました」と告げると、朗読劇「やがて君になる 佐伯沙弥香について」はついにそのまま終演してしまったのだ。

紛れもなく佐伯沙弥香の声だった。あの柚木千枝との初恋に揺れ動き、あの七海燈子の普通の中の一番を願い、平行線を貫いた佐伯沙弥香が、「本当に、ありがとうございました」という言葉を、観客に向かって伝えたのだ。

佐伯沙弥香が、自分の心の中を観客に見せ、語っていた。全て彼女の言葉で紡がれた舞台であり、幕が上がってからの彼女の一言目から、幕がおりる最後の言葉までが一つのカギカッコで結ばれていた。そして最後に、カーテンコールでも佐伯沙弥香がもう一つのカギカッコを使って、観客へ謝意を伝えた。
最後まで、どこにもキャストの姿はなく、自分はいつまでも朗読劇「やがて君になる 佐伯沙弥香について」の世界にいた。現実へと戻る機を逃し、いつまでも取り残されていた。

これが、朗読劇なのか。

そんな風に思っているうちに照明が戻り、場内アナウンスが響き渡る。友澄女子中学校に生まれた一つの秘密の関係が、遠見東高校生徒会の中で錯綜した恋心が紡がれた舞台も、気づけばただのステージになっていた。

「佐伯沙弥香の追憶を共にした」。

これが、自分の抱いた本公演への感想だ。

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