わしの頭の中の物語じゃ

入学式といえば桜の木の下で記念写真を撮るものらしい。入学初日の我が校もご多分にもれず校門前の満開の桜の下には新入生が列を作っていた。既に新入生同士で談笑しているグループは同じ中学の出身だろうか。俺の中学は少し離れたところにあるのでまだ誰も友達はいない。入学式というあの厳かな雰囲気の中で友人を作れるほどのコミュニケーション能力もなく、慎ましく家族と列の一部と化している。
一人、また一人と写真を撮り終えた新入生が校門を抜けていく。俺はその面々をただぼーっと眺めていた。たかがホームルームの一回でクラスメイトの顔を覚えられるはずもなく、出席番号が前後の人でやっとだ。当然見知った顔が流れていくことはない。それでも手持ち無沙汰の俺にはそうする他なかった。
ふと、通り過ぎていく笑顔が目に留まった。視線の先にいたのは女子生徒三人。中でも一目見ただけで快活な性格をしていそうだと感じたその子に、特に目を引かれた。少し幼げな印象を与える丸顔で、朗らかな笑顔のもとにはうっすらとえくぼができていた。周囲の女子生徒とは旧知の仲であるような相好だったが、ひょっとしたらそうでもないのかもしれない。彼女のような明るい笑顔を振りまけたなら、人と打ち解けるのもそう難くないのかもしれない。そうまで考えさせるようなものだった。彼女はやや長身気味ではあったが、それにしても一挙手一投足が大きく、それがまたエネルギッシュなイメージを作っていく。
「何ぼけっとしてんの」
少し離れた母の声で我に返る。気づけば列は進んでいて少し間が空いていた。慌てて距離を詰め列に戻る。ふと振り返ると彼女の姿はもう見えなくなっていた。遠目で少し眺めていただけなのに、もうどこか残念がっている自分が薄気味悪かったが、あの子なら仕方ないという言い訳が思い浮かんだ自分がまた自己嫌悪に拍車をかけた。
あの子と同じクラスになれたらいいな、とかあまりにも在り来たりな期待を抱いて、入学式の日を終えた。

入学式翌日の今日は一日ホームルームの予定で、この一日で一年のクラスでの立ち位置と過ごし方が決まるという強迫観念に勝手に駆られていた俺は胸中穏やかではなかった。人より長い通学電車の時間を遺憾なく活かし、やれ自己紹介の文章だの公開用の趣味だの好きなアーティストだので武装していた。
やがて自己紹介の手番が回ってきて教壇の前に立ったときに、俺は初めてクラス全体を見渡した。まだ初めて見る顔ばかりだった。だがその中で、明確に記憶の中に残っていて強く主張してくるものがあった。昨日、同じクラスであることを願ったあの子だった。
彼女は俺が話し始めようとするまで、ずっと隣の席の女子と話をしていたようだった。横顔ながらも、あの子は昨日見た子だとすぐに分かった。いったい何を話していたのだろう。「今の子かっこよかったね」か、「部活もう決めた?」か、「もうすぐ私の番だ~緊張する~」か。秒針を追い越して妄想の文字列が脳内を占拠した。それから少しずつ広がっていく視界と訝しげな他の生徒からの視線で時間の経過を肌で感じ、漏れ出した「あっ」という声で彼女がこちらを向いた。俺が話し出すのを察して聞く姿勢に入ったのだ。もう気が気ではなかった。完全武装であったはずの銃器たちは弾詰まりを起こし、夢に描いた高校デビューは敢え無く失敗に終わった。当の俺はその失敗すら感じる余裕もなく、座席に戻るや否や彼女の座席から出席番号を割り出し名簿から名前を探し、彼女の自己紹介を待つばかりだった。
彼女の名は中島由貴というそうだ。中島と書いてナカジマではなくナカシマ、由貴と書いてユウキではなくユキ。彼女が有象無象に埋もれる没個性的存在であれば何度か読み間違えもしただろうが、あの子ならば一生間違えることはないだろうという確信めいたものがあった。イメージ通りの弾んだ声で、少し言葉に詰まった時の照れ隠しの笑いは瞼の裏に焼き付いていた。彼女は軽音部に入部すると言っていた。彼女の合わせて部活を選ぶほどではないが、彼女のバンドのライブは欠かさずに見に行こうと心に決めた。

同日午後、今度は委員会を決めると教師は言った。学校の仕組みもまだそれほど理解できていないが、山積されたクラスの決め事には学級委員が必要になるし妥当なのだろうか。俺は委員会自体に興味はなかったが、話し合いが停滞するのが面倒だったので、立候補者がいない委員会があればそこに入るか、程度のつもりだった。案の定人気のない委員会もあり、俺はその中で仕事が楽そうなものに適当に手を挙げた。委員会は各クラス男女一名で、その委員会は誰も立候補していなかったので、男子が俺で、女子の枠がまだ決まっていなかった。話しやすい子が来てくれればいいな、と思っていると、あろうことか唯一覚えている女子生徒の声が聞こえた。
「じゃあ私やります!」
中島さんの声だった。
「〇〇君、一年間よろしくね」
彼女から発された、初めての俺に向けた言葉だった。昼食時に「中島って可愛いよなー」と軽口を叩いていた男子生徒の睨むような視線が少し心地よかった。

あれからずっと、俺と中島さんは適度な距離感を保ち続けた。委員会の時は色々な話をしたが、それ以外では特に深くは干渉しなかった。彼女はもともと部活の時間を確保するために委員会に入らないつもりだったらしく、仕事が出ると彼女はいつもため息をついていた。見かねた俺は多めに仕事を引き受けていた。その度彼女は俺に感謝の意を伝えることを決して忘れなかった。彼女から感謝されたり労いの言葉を受けたりするのは、多少仕事の量が増えるのと明らかに割に合っていない幸福だった。また彼女は生真面目なタイプではなく、稀に課題を忘れたり授業をサボったりしていた。その適度に砕けた様子がまた接しやすさに繋がっていた。彼女は男女分け隔てなくクラスの誰とでも仲が良かった。俺は特別女子と会話できるタイプの人間ではなかったが、それでも彼女は俺にも委員会以外の場所でも話をしてくれた。男子からの人気も高かった。そんな彼女が委員会の時にだけ俺にだけ見せる感謝の言葉とかめんどくさがりな側面とか、そういうのがあるんだと考えると優越感に浸れた。彼女が誰かと付き合っているという噂は聞いていない。相当な人気があるのでもう告白も受けていると思うが、その実は知らないし、知らないままでいたいと思う。
そしてついに一年という月日が流れ、クラス替えを迎えることとなった。勿論心の中では連続で同じクラスになることを祈っていたが、そう上手くはいかず、二年生は違うクラスだった。クラスも部活も違う彼女と関わる場は一切なく、たまに廊下で友人と盛り上がっている彼女とすれ違い、軽音部のライブの時にはその姿を観に行くくらいだった。その度どこか寂しさを感じていたが、それをぶつける先もなく、そのまま日々は流れていった。三年でもクラスが同じになることはなく、このままもう中島さんと話すことはないまま高校を卒業するのだろうか、なんて考えもした。

そんな夏のある日、俺は移動教室のため廊下を走っていた。前の時間の体育が長引いてしまい、授業は既に始まっていた。三年のこの時期ともなると受験科目に応じた選択科目が多く、色々な教室を使って授業をする。次の授業は芸術棟三階の空き教室で、教室棟からは遠く面倒だった。
教室棟から芸術棟への渡り廊下を通ったとき、一階の教室の窓の下に誰かがしゃがみこんでいるのが見えた。あんなところで何をしているんだろう。急がなければならないところだったが思わず足が止まり、そちらに目をやった。すると、忘れもしない、思わぬ人と目が合った。
中島さんだった。
少し距離こそあったが視線がぶつかったことで彼女と俺の間には微妙な空気が流れていた。俺は早く授業に向かわなければならなかったのだが、無言でこの場を去ることはできなかった。気まずいからすぐに立ち去る、より、せっかく話せるかもしれないこの機会を逃すなんてもったいない、が優先された。俺は彼女のもとへ駆け寄った。

「えへへ、サボってるとこ見られちゃった」
彼女は照れ臭そうにそう呟いた。
俺は心の中で自分がもう忘れられているんじゃないかと少し不安だったが、彼女は俺に二年前と同じ調子で話してくれた。授業をサボっていたのは知ってたよと話すと、「実際にサボってるところを見られると恥ずかしい」と言った。
俺はそのまま中島さんと一緒に授業をサボった。まるまる一時間、芸術棟裏に座り込んでとりとめのないことを話した。流行りの漫画の話をした。定期試験の話をした。軽音のライブ観に行ってるよ、と伝えると、知ってるよ、と返された。一年の頃、委員会の仕事を率先して引き受けてくれてありがとうと言われた。俺の名前を呼んでくれる度にどきどきした。それでも、二人の会話はありふれた同級生の枠を超えることはなかった。
やがて授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。この後は昼休みで、人通りも増える。
「こんなとこ見られたら恥ずかしいし、そろそろ行こっか」
彼女はすくっと立ち上がって、俺に手を差し伸べた。何の恥じらいもなく、いつもの笑顔で、彼女は立っていた。
敵わないな。
少し頬が熱くなるのを感じながら手を取り、誰かに見つかる前にと教室へ駆けた。

俺はそれ以来彼女と話すことはなかった。最後に話したあの日の思い出のあまりの美しさに、少し臆病になっていたのかもしれない。卒業式の日くらいはと彼女の姿を探したが、クラスメイトに囲まれながら涙を浮かべていた彼女を見て、なんとなく憚られた。それでお終いだ。
連絡先も知っているし、話そうと思えばいつでもそうできるのだろう。同窓会で会うことだってあるだろう。それでもなぜか、俺は心のどこかで「中島さんは俺の記憶の中の存在であってほしい」と願っているのだった。

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