国立奥多摩美術館で芸術激流に参加してきました。

国立奥多摩美術館とongoing共同主催のイベント「芸術激流」に参加してきました。


「芸術激流」フライヤー
御嶽渓谷


国立奥多摩美術館ってなに?ってひとは昔のクラウドファンディングのページに発足の経緯が詳しいので是非ご覧ください。

国立奥多摩美術館は、国立でもなければ奥多摩でもなければなんなら美術館でもないことで有名なアーティストランスペースの極北みたいな場所です。


今回参加した「芸術激流」というイベントは、川下りのレジャーであるラフティングをしながら複数の作家の美術作品を鑑賞するというものでした。


さくっとした感想を書き残しておきたいと思います。

まず、これは国立奥多摩美術館に行くたびに思うことなんですが、
需要のなさがすごい。
山すぎる。森すぎる。川すぎる。
一体ここのどこに「美術作品」の需要があるんだと思えるくらい、山やら川やら岩やら動植物に囲まれている環境に国立奥多摩美術館は存在していて、人間が作るものとかひいては人間自体が矮小化していくかのような感覚に見舞われていくたびに毎度クラクラします。

でも、よく見ると青梅の山林ってほとんどが計画的に植林されているであろう針葉樹の人工林で、橋の上から山を眺めたりしてると、伐採された区画の禿げ方が露骨にグリッド状なこととか、雑木林の部分と人工林の部分の境界がわかりやすすぎるところとか、ぜんぜん自然じゃないんですよね。都市部に比べれば動植物は多いし空気もおいしいけど、そこにあるのは紛れもない人工的なアーキテクチャで、それらが「山」然とか「自然」然として視界を覆いつくしてくるというのは、自然の中での爽快感みたいなものとは程遠い不条理な圧迫感だと思います。僕は国立奥多摩美術館に行くたびに、「山って不条理なんだ」みたいなことを思わされます。そして、青梅の山林地帯に限らず、日本の国土の実に七割近くがこうした人工林の山間であることに、日本の空間的な実態にまで一般化できるこの環境を経験する価値とかについても鑑みたりします。

「芸術激流」ではそういう圧迫感のもと川下りをしながら作品鑑賞をするので、作品たちはまるで「自然」という背景に脅迫されてるみたいでした。ていうかその自然っていうのは山とかのことですけどそれ本当は自然じゃないんで、不自然でした。でも作品も不自然ですよね、なので小さな不自然のうしろに巨大な不自然が横たわってるような体験で(でもそれはパッと見自然の中でレジャーを楽しんでいるように見える)、いま思い返すとすっごく気持ち悪かったです。

なんか地域アートみたいにリサーチで地域に関与するとか地元密着の地方画家になるとかそういう手段で空間に関与するんじゃなくて、それ以前に、そこに山や川があること自体がすごく不条理で、不自然ということからはじめて、その状況に作家と作品が徒手空拳で孤立無援で対峙しているという状況は、従来の国立奥多摩美術館がやってきたことでもあるし、それを作家を招いて展開することがこういうカタチで実現できるということ点が面白かったです。これは不自然保護活動だと思います。

ここまで作家それぞれのはなしを書いてないんですが、なぜかというと書けないからです(すみません。。)というのも、芸術激流は写真撮影とか普通にできないしキャプションももちろんないため、作品の意図だのコンセプトだのを詮索する以前に、どの作家がどの作品の制作者なのかを把握することすら、その全容を一回でつかむのはむずかしいのです。これは、僕らが普段どれだけキャプションとスマホに収めた作品の写真で展覧会を記憶しているか思い知らされました。しかもあまり知らない作家さんとかも普通にいるので。。後から「あああれあの人の作品だったのか」とかそもそも「あの時間作品だったんか!」みたいなこともあって、そういう時差が組み込まれている点も逆に関心を引く要素でした。それに鑑賞者は鑑賞するためにお互いコミュニケーションをとってボート上で連携をたったりしなければいけなくて、そう考えると鑑賞体験としては非常にマゾヒスティックな快感を刺激されるところがありました。すみません、そういう次第で作家や作品のディティールはまたアーカイブとかが公開されたりしたらできると思います。そういう意味でアーカイブはどうなるのか楽しみです。

作家のはなしでいうと、出展作家のひとりである篠田太郎さんは僕の学部時代の先生でした。彼は芸術激流のプレス発表後にあたる2022年8月13日にご逝去されました。その後の動向を見守り続けていましたが、彼の作品の出展を取りやめたりすることがなかったことは素直にうれしかったです。篠田太郎の作品をちゃんと芸術激流で展示するために動いてくれた方々、ありがとう。今回は遺作を見に行くつもりで参加しました。僕が彼から受けた教えで一番感銘を受けたのが「俺は変な顔してるやつとは仕事しねぇ」という完全に偏見丸出しの主張だったのですが、川下りが終わった後国立奥多摩美術館でおでん食べながら、これが篠田さんの言う変な顔してない人たちなのだなあとか考えてました。僕も変な顔にならないように生きていきます。

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