【反論】佐俣アンリ様の事実誤認について

私の執筆した記事に対し、佐俣アンリ様より批判が寄せられました。私の提起した疑問に対し誠実にお答えいただけたことにまず感謝申し上げます。フェミニストとしてビジネスの場から社会を変え、女性差別をなくそうとする思想については非常に賛同するものです。


しかしながらいくつか事実誤認がありますので、一点ずつ個別に反論いたします。

論点1.「RTがない」という批判について

<佐俣氏の引用>最初に明らかにしておくべきことは、この江原が発言しづらい状況を生み出したことの責任は私にあります。江原は、その後事件について厳しく指摘するnoteをシェアしております。なお、このRTは現在元ツイートが削除されているため見ることができませんが、当RTの存在に言及するツイートもあり、RTがないという批判は事実と異なります。

佐俣氏は「RTがないという批判」を私が行ったかのように言及しておりますが、事実と異なります。私は「ツイートをしていない」ことを批判の要素の一つに挙げましたが、RTの有無については私の論旨にはまったくございません。
Twitter上の議論の応酬として、批判者側から「江原ニーナ氏は事件に関する記事のツイートをRTしていた」と批判を受け、それに対する反論として「ツイートをRTすることは必ずしも賛同の意を示すものではなく、その賛否は文脈によって判断されるべき」と申し上げました。

例として「【ニュース】オリンピックに批判殺到」というようなツイートをRTした直後に「そんなことはないはずだ」とツイートしたならば、そのRTはオリンピックを擁護する人物による「否定」の意味として解釈すべきです。もちろんRTした直後に「まさにその通りだ」とツイートしたならばまさしく賛成の意味として解釈すべきでしょう。

このような賛否の判断方法はTwitterユーザーにとって一般的な認識です。そのため、RTをしていたとしてもその賛否は不明であり、江原ニーナ氏の「意見表明」に相当するとは判断できないと、個人的には考えております。つまりRTは一定程度の肯定の意を含むとしても「意見表明」には相当しないという考えです。

その上で私が行っている批判は、光本勇介氏が関与する凄惨なテキーラ死亡事件について「意見表明」が確認できていないという点もありますが、より重要な点として、その事件の背景に想像される女性差別的な慣習に対して声を上げることの重要性を、江原ニーナ氏の意見に賛同した上で付随して申し上げたものです。

江原ニーナ氏が「小田急線刺傷事件が”フェミサイド”であるかどうかは、被害の範囲のみによって決められるべきではない。”フェミサイド”であることを否定しようとする人間の何を語ろうとしないかを見極めるべき。」(筆者による要約)という主張を行ったため「何を語ろうとしないかを見極めるべき」という重要なフェミニストの態度の延長上に、追加で「光本勇介氏の関与するテキーラ死亡事件もフェミサイドとして語って欲しい」と私の意見を追加したものです。

以上より、まず「RTがないという批判」は事実誤認であり、たとえRTやツイートがいくつかなされていたとしても、それよりも重要な争点は「意見表明がどのようなものであるか」です。それゆえ江原ニーナ氏からの「ブロック」は私の追加した意見「光本勇介氏の関与するテキーラ死亡事件もフェミサイド」に対してその正確な意図は曖昧ながら否定的見解を示すものであると判断いたしました。

よって、事実誤認と論点の相違がございます。

論点2.「これについて発言するならこれにも発言しろ」について

<佐俣氏の引用>「これについて発言するならこれにも発言しろ」という要求について、私たちは様々な意味で不均衡なものだと考えますが、その要求が江原にのみ過剰な形で向けられることは、特に大きな問題だと考えます。

佐俣氏は「これについて発言するならこれにも発言しろ」という要求について「様々な意味で不均衡」と主張していますが、その様々な意味が不明であるため正確な反論は困難を極めます。

しかしながらできる限り私としても誠実にお答えしたく思いますので、一般的なフェミニスト間の議論において、クリシェのように定式化されている一般論に対する私見を示します。

前回note公開後に寄せられた批判の一つに「"Whataboutism"ではないか」という指摘がありました。

まず簡単に"Whataboutism"について説明します。

以上が「これについて発言するならこれにも発言しろ」の論法としてポピュラーなWhataboutismです。

さて、以上の定義にあてはめながら私の論旨がWhataboutismであるかどうかを検証します。要約して記述しますので、正確性についてはご留意ください。

江原ニーナ氏「小田急線刺傷事件が”フェミサイド”であるかどうかは、被害の範囲のみによって決められるべきではない。”フェミサイド”であることを否定しようとする人間の何を語ろうとしないかを見極めるべき。」(要約)

DJ AsadaAkira「その通りだと思います。小田急線刺傷事件はフェミサイドであり、また光本勇介氏の関与するテキーラ死亡事件もフェミサイドとして批判対象であるべきだと思いますが、ご意見ください」(要約)

このやり取りがWhataboutismであると解釈する余地はないでしょう。Whataboutismの定義は、ある意見を封殺するために詭弁として、本筋とは関係のない事柄を持ち出し、議論をかく乱することです。私の主張の趣旨は江原ニーナ氏の意見を肯定した上で私見を追加するものです。

このWhataboutismの定義における重要な要件「否定して議論をかく乱する」については書き直すことで明瞭になるでしょう。典型的Whataboutismを3例ほど例示します

江原ニーナ氏「小田急線刺傷事件が”フェミサイド”であるかどうかは、被害の範囲のみによって決められるべきではない。”フェミサイド”であることを否定しようとする人間の何を語ろうとしないかを見極めるべき。」(要約)

Whataboutism person①「そんなことよりも光本勇介氏のテキーラ死亡事件を批判しろよ」
Whataboutism person②「小田急線の批判するなら光本勇介氏のことは批判しないの?」
Whataboutism person③「女性だって男性を殺すし、女性が殺されることがなんでもフェミサイドなら東京大空襲もフェミサイドじゃん」

これらがいわゆる「これについて発言するならこれにも発言しろ」の論法です。

私の主張とこれらの詭弁の差は歴然としています。私は意見を否定することなく肯定し、更に追加の議題の追加を行ったにすぎず、ディベートとしては一般的な建設的意見です。

以上がWhataboutism論法に関する話ですが、原理的な「矛盾」についてもお話しします。

「ある主張(A)」と「ある主張(B)」が統一的基準に基づいて発言されていない時に、その人間は「ダブルスタンダード」(矛盾)として批判されるべきです。

一例を示します。

主張(A)「コロナが流行っているので外出をやめてください」

主張(B)「IOCのバッハ会長が銀座で遊ばれるので接待します」

「外出をやめるべき」と主張している人物がバッハ会長の時にだけ「接待します」と主張した場合、一般的な日本国民は疑問を感じ、その人物はもしかしたら道義的にも論理的にも破綻しているのではないか、ということが疑われるべきでしょう。特に政治家や言論人として活動しているような場合は致命的ともいえるはずです。

しかしこの明らかに当然おかしさを感じる「ダブルスタンダード」な人物も「”これについて発言するならこれにも発言しろ”なんて要求は問題だ」と発言する権利はあります。改めて批判者を加え、Whataboutism論法で書き直してみます。

K総理大臣「コロナが流行っているので外出をやめてください」

Whataboutism person「外出やめろなんておかしい!バッハ会長は銀座で遊んでいるぞ」

K総理大臣「それは"Whataboutism"だ!"これについて発言するならこれにも発言しろ"なんて要求はやめるべきだ」

このWhataboutism論法話者はまさに典型的な「否定して議論をかく乱する」という定式の意見を表明しています。それに対してK総理大臣はWhataboutism論法だと批判しています。

さて、この場合、K総理大臣とWhataboutism personのどちらに「正しさ」を感じますか?

つまりここで重要なポイントは、意見を示すことが仕事であり、リーダーシップを高度に発揮する職業の政治家や言論人であるならば話題の「近接性」と「蓋然性」によっては道義的責任と論理的責任を伴い、自らの主張が無矛盾であることを示す必要があるということです。

逆に佐俣アンリ氏に問いかけますが、どのような「条件」であれば「これについて発言するならこれにも発言しろ」が正しく、また時に間違ったものであるのか、その「条件」を提示していただきたく思います。

論点3.「偽物のフェミニスト」について

<佐俣氏の引用>また「偽物のフェミニスト」など彼女の尊厳を傷つける発言も、批判の範疇を逸脱していると考えます。

以下は私の前記事から「偽物のフェミニスト」に相当する表現を行っている一文を文脈ごとそのまま引用するものです。

ここで「偽装的フェミニストであるかどうか」を調べる便利なリトマス試験紙があるので披露しよう。
私は気になるビジパのフェミニストがいたら「箕輪厚介」と「光本勇介」でツイートの履歴を検索するようにしている。
その両方を批判していれば、その人物は信じてもよいはずだ。
どちらについても言及していないなら”要注意”。

この一文は「偽装的フェミニストであるかどうか」を調べる方法の一例を示すものであり、江原ニーナ氏が偽装的フェミニストであると指摘するものではありません。たしかに光本勇介氏に関するツイートを江原ニーナ氏は行っていなかったため「"要注意"」に値することを示唆するものではありますが、この表現の通りに解釈されるべきです。つまり江原ニーナ氏は「"要注意"」だから私は意見を投げかけたのであり、偽装的フェミニストであるかどうかは江原ニーナ氏の意見表明の結果次第であるべきです。もしも江原ニーナ氏が「たしかに光本勇介氏の関与するテキーラ死亡事件もフェミサイドの一種として捉えられる」と意見表明を行ったならば、偽装的フェミニストではないと判断されるべきでしょう。

しかしながら根本的な前提として、あるフェミニストが偽装的かどうかについては固定的な証拠によって真実か否かを争うものではなく、読者個々人の印象と判断に委ねられるものであることは当然です。例えば、光本勇介氏を支持しているがフェミニストであることを標榜する人間に対して「それでもあの人はフェミニストとして素晴らしい」などと判断する人間がいたとしても(どのように論理的整合性を保っているのか倫理的疑問があるにせよ)、その存在はまったく不思議ではありません。あくまでも偽装的フェミニストかどうかはその読者の心の内で、その人物を信じられるかどうかで決まるものです。

よって、佐俣氏の当該指摘は単純な誤読に基づくものです。

最後に、誹謗中傷について

佐俣氏は誹謗中傷について縷々述べていますが、私はもとより、江原ニーナ氏に対する「人格批判」を行うつもりはなく、また記事中にそのような表現は一切ありません。更に誹謗中傷を扇動するような表現もありません。また事実として、Twitter上の見える範囲でもほとんど誹謗中傷と言える悪質な投稿は確認できておらず、江原ニーナ氏へのリプライもほとんどありません。私の記事への賛同的意見はどれもほとんど穏健です。

フェミサイドが「弱者男性」という属性にのみ結び付けられるのではなく「社会の上部」でも起こり得るものであり、理不尽な暴力を避けられない女性の立場に立って声を上げる方ばかりです。また「フェミサイド」を否定したがるようなミソジニストにとっても、やはり光本勇介氏の関与した凄惨な事件は義憤を抱くのか、フェミニズム的視線を向けさせる好機を与えてもいます。更にこのような形で反論をいただき、議論を重ねることは公益に資するものと考えています。

江原ニーナ氏が無根拠な誹謗中傷にあわれているのであれば本当に痛ましい話だと思います。その誹謗中傷を投げつけている人物に対して厳しい対応をされる場合、心より応援し、できることであればご助力いたします。

前回記事の文末でまとめているように、私が厳しい口調で批判を向けている矛先は、あのような凄惨な事件を起こす腐敗した一部業界全体に対してです。私個人としては、佐俣アンリ氏が私と同様に、あの痛ましい事件を批判し、また隠されがちな業界の女性差別的慣習の改善に関する意見表明をしていただけたことに誠に感謝申し上げます。

DJ AsadaAkira

<前回記事>


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