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僕の最新のヴァージョン

〈僕〉という一人称を使うことに、いつもすこしだけ後ろめたさがある。

 ふだん、家族や友人と話しているときは〈俺〉という一人称を使っているので、〈僕〉という一人称を選ぶのは、おおかた書き言葉のときだ。5年ほど前、20歳前後のころから、日常的に文章や詩を書いてきたが、そのなかで使った一人称はほとんど〈僕〉で一貫している。

 なぜ文章や詩のなかで〈僕〉を使うかといえば、なんとなく格好良くてさまになる気がする、というだけのことだ。〈俺〉で文章や詩を書いてしまうと、粗野で暴力的な感じがしすぎる。かといって〈わたし〉を使うほど、洗練された人間でもないし、品のいい文章を書くわけでもない。だから、ほとんどの自分の作品のなかで、〈僕〉という一人称を採用してきた。

 あるいは、頻度は低いが、年上の人間と話すときにも〈僕〉という一人称を選ぶかもしれない。良い感じの女の子の前で、かわいい男の子を演じるときにも、久しぶりに会う親戚のおじさんの前で、優秀な若者を演じるときにも、〈僕〉は使われるかもしれない。一人称はいつも、迅速なポジショニングに役立つ。

 気持ち悪いと思う。一人称を選択しているそのプロセスが、背後にあるその計算が、一人称を使わなければならないということそれ自体が、気持ち悪いと思う、とても。



 〈僕〉という一人称は、かなりあざとい。これまで、さんざん使ってきたからわかる。

 さっきも書いたとおり、一人称というもの自体が、そもそもあざとい道具だが、〈僕〉という一人称はとくに、〈わたし〉や〈俺〉、〈自分〉、その他いろいろ、よりも、控えめな印象を与えながら、同時に使用者のキャラクター、属性を明瞭にする効果を持っている。

 〈僕〉という一人称、その属性をひとことで言ってしまえば「弱そうな男」になる。ちょっとだめな男の子。上品に整えられた男性性。準備された思春期の匂い。特権化された若さ。いちばん上まで留められたシャツのボタン。その上から重ね着されたニット。趣味のいい調度品の揃った実家。フレームの細いメガネ。無自覚な性的さ。暴力の秘匿。数多くの情報が、見た目にはフラットにうつる〈僕〉という一語をもって提示される。だが〈僕〉は、間違ってもニュートラルな一人称ではないのだ。

 そういえば、自分が、話しことばで使う一人称を〈僕〉から〈俺〉に変えたのは小学生のころで、それは〈僕〉よりも〈俺〉を使っていた方が強そうでかっこいい、的な、周りの子供たちの雰囲気を察したからだった。そして、いま自分は、弱そうに見せた方が得をしそうなときに限って、〈僕〉という一人称を使っている



 〈僕〉という一人称を使うとき、自分が、"男性"であることの特権を利用している、と、いつも感じている。とくに、作品の中ではそうだ。

 歴史上、多くの“若い女性”の詩人や歌人、あるいはミュージシャンが、その作品のなかで〈僕〉という一人称を使ってきたし、いまも使っている。

海を見よ その平らかさたよりなさ 僕はかたちを持ってしまった

服部真里子『行け広野へと』

一体さ、僕は何を信じたらいいのかわからないよ

羊文学「キャロル」


 彼女たちの多くは、おそらく日常会話では〈僕〉という一人称を使わないだろう。たとえば服部と、羊文学の作詞担当・塩塚モエカのメインの一人称が〈わたし〉であることはインタビュー等をみれば確認できる。

 つまり、彼女たちは作品のなかで〈わたし〉という一人称を使うことを、ある種のノイズだとみなしているのだと思う。彼女たちの作品が志向する詩的効果、それを支えるのにふさわしい一人称は〈僕〉だ、と彼女たちは判断している。

 つまり、大袈裟に言うなら、いまの日本語で〈ニュートラルであること〉は〈男性であること〉を意味している。そして自分は、ニュートラルであるために〈僕〉という一人称を使っている、かのように偽装しながら、確信犯的に〈僕〉という一人称の男性性、あるいは青春性を利用してものを書く。

 彼女たちの使う〈僕〉は、なぜか、女性の書く〈僕〉として読まれてしまうだろう。だが、自分の書いた〈僕〉は、男性がわざわざ書いた〈僕〉としては読まれず、ニュートラルな〈僕〉として読まれてしまう、おそらくそのはずだ。



 いろいろ考えた末に、なにかを書く必要ができて、僕は、MacBookのテキストエディタと向かいあう。

 こうして僕はまた、僕、と名乗ってなにかを書きはじめる。理由は、そちらの方が良いから、としか言いようがない。なにかを書く以上、強い作品を書かなければならない。正しかろうが、間違っていようが。

 僕は、これまでさまざまなひとが、僕、に負わせてきたイメージやニュアンス、それらを利用する。僕は、使えるものはすべて使う。それはつまり、僕の書く文章や詩が、ある種の抒情性、ないしは青春性のようなものを利用して成立している、ということだ。その情けない事実を、僕は、僕自身のこころとからだで負う。

 しかし同時に、僕はこれから、僕、と名乗ってなにかを書くことで、僕、という一人称が背負っている状況、イメージやニュアンスを、いつでも書き換えることができるはずだ、とも考えている。

 たしかに、日本語のシステムは強靭で、そう簡単には、僕、という一人称の背負ってきた歴史を書き換えることはできないだろう。それはわかっている。だからこそ僕は、僕、と何度も言う。そのたびに僕の一人称は、ほかの誰かの使っている、僕、とはちがった手触りをもってあらわれる。僕がわざわざ意識的に書いている、僕、という一人称が。

 僕が、僕、と書くとき、いつもすでにあたらしい誰かが創造されてそこに存在している。あたらしい僕が、最新のヴァージョンの僕が、すぐにそこに現れる。それを見てみよう。



始まりに気付かれるとき僕はもう冬の玉座に腰掛けている

青松輝

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