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hai-jin no uta

 もしかすると読者にとっては、すこし独りよがりな問いの立て方に思えるかもしれないけれど、なぜ詩人は詩を書かなければならないのか、ということを、僕はよく考える。詩というジャンルの存在意義をひとことで言うのはものすごく難しいにも関わらず、僕自身は取り憑かれたように日々、詩を書き、読み続けているからだ。

 詩は役に立たない。詩はわれわれの生活をいっさい良くしない。経済的な利益とはほど遠く、読者にも書き手にも精神的な安定より不安定をもたらす。詩を書く、読ませる、という営みは、おおよそ誰からも求められていない。

 これは今ここ2023年の状況にかぎった事態ではない。詩はいつも、世界の側からというより、作者にとっての必然性から要求され、書き継がれてきた。戦後詩の始まりを告げた詩誌「荒地」の巻頭にもこのようにある。

親愛なるX……。君も知っているとおり、現代は詩を省みることの尠い時代である。
「Xへの献辞」(『荒地詩集1951』より)

 70年前から、ずっとそうなのだ。もちろん今よりはマシな時期もあった。池袋や渋谷の西武百貨店に、詩をメインに扱う書店があった時代もある。しかしそれも、「本」というものがバブルのなかにあったから、「詩の本」が余剰として存在を許されていただけだ。

 「詩」ではなく「短歌」ならどうか。たしかにいま、短歌は自由詩よりはまだ人気があるように見える。ここ数年、短歌が流行っている、と言って、「短歌ブーム」などという気持ちの悪い言葉もそこかしこで使われている。ここでいう「ブーム」はつまり、「金になる」と同義だ。

 だが、このような「短歌ブーム」で重んじられているのは、決して詩的なるものではない。短歌が流行っているのではなく、SNSが流行っているから、ついでにお金が集まってきているだけだ。

 流行っているのは「いいね」しやすい短文であって、短歌や詩ではない。SNS上で「短歌が好き」と自称している人間のうちどれだけが、書籍やwebで真剣に短歌を読み、書いているだろうか。SNS上で「良い短歌」として流通する作品のうちのどれだけが、そう語られるに値する強度を持っているだろうか。

 いずれにせよ、詩は役に立たない。もっと人気のある創作、音楽やお笑い、あるいは料理、何であれもう少し、具体的で身体的な反応を引き出すことができる。詩にはそのようなものはない。

 詩の効果を正確に言語化することは難しい。適当に言葉に当てはめることはできるだろう。泣きそうになる、鳥肌が立つ、ジーンとくる、笑顔になる……。しかしどうしても、どれも嘘くさいと思う。

 そうして、僕は「なぜ詩を書かなければならないのか?」と考えることになり、話はこのページの頭に戻る。


 このような認識を抱えたまま詩作の局面に臨みつづけた書き手は枚挙にいとまがなく、あるいは、僕が今更このような問題に執着しなくてもよいのかもしれない。たとえば、詩人として出発し、戦後最大の思想家の一人となった吉本隆明は、自身の初期の詩集を振り返ってこのように書いている。

詩は近代詩から現代詩への経路をかんがえると、長い年月のあいだ詩の表現をつづけることは、すべての現実にたいする不適性と不利得と自己破滅へと書くものを追い込んでゆくようにつくられてきた。
吉本隆明「背景の記憶」(『吉本隆明初期詩集』より)


 「現実にたいする不適性と不利得と自己破滅」へと「書くものを追い込んでゆく」。当然のことだが、現実の暮らしとよく馴染む詩など誰も相手にしない。詩は〈現在〉を否定しなければならない。「生活を彩ってくれる」ような詩などはありえず、見た目の上でそのように見える詩も、擬態をしているだけで、かならず血に飢えたものをそのテキストのなかに抱えている。

 つまり詩人は無限に自分を否定しなければならない。妥協の結果としてしか、詩は書き終えられることがない。

 書けば書くほど不幸になってゆく若い詩人は、いつの時代も生まれては消えている。今はTwitterやInstagram、その他のSNSも〈詩〉の代わりに機能しているだろう。超越的な何か、として、不安な魂のために存在しているということだ。

 傷ついているから書かなければならず、書けば書いただけまた傷つく。自分がそのような存在でないのか、あまり自信がない。

わたしが何をかんがえ何を言いたいのかは、はっきりしている。詩はたぶん間違った表現なのだということだ。
吉本隆明「背景の記憶」(『吉本隆明初期詩集』より)

 僕が言いたいのもつまり、詩は間違っている、ということなのだろう。


 「廃人」ということばがある。元々はあまり良いことばではないのだろうが、今は誰もが当たり前に使っている。ネトゲ廃人、SNS廃人。詩人の松本圭二は、自分のことを「詩人以下」の「廃人」だと書いた。すこし長い引用だが読んでほしい。

おおむね人間は(なんという書き出しだ)何もしていないという状態に長くは耐えられず、そのうち何かをしでかしてしまうものだと思われるが、それでも私は何もしないのだと半ば依怙地になって怠惰を決め込んでいるうちに、取り返しのつかない消耗と浪費の感覚が身体全体を支配しはじめ、その感覚にも慣れ始めるといよいよ病的怠惰というか廃人と呼ばれるものに近い状態になる。
松本圭二「詩人以下」(『チビクロ』より)

 「廃人」。英語なら(和製英語ではなく)「mania」と言うだろうか。

しかしながらそうは簡単に廃人に成り切れぬのは、そこにおいてもなお自己防衛的な本能として何ほどかの生産的な行いでもってこの何もしていないという罪を償いたいという欲望が現れてくるからであって、つまり何もしないかわりに人によっては思わず詩のようなものを書いたりしてしまうわけだ、というのがとりあえず分かりやすい。
松本圭二「詩人以下」(『チビクロ』より)

 おそらく僕も、〈詩人〉というよりも、〈詩の廃人〉といった方が正しいのだと思う。文学に憧れる気持ちなど、ほとんど持ったことがない。学校にも行かず、するべき仕事もせず、なんとなく本を読み、スマホに文字を打ち込むことをやめられない、というだけだ。

 思えば自分は、詩や短歌に出会う前からずっとそうだった。ソーシャルゲームの廃人だったこともあるし、大学のクイズサークルにいる頃は、眠れなくなるとWikipediaを漁ってなんでも覚えた。対象がいつしか詩になり、その時期が長く続いている、というだけのことだ。

 自分に詩や文学の才能があると考えたことはほとんどない。結局このような文章を僕に書かせているのは、才能ではなく、単なる辞められなさだと思う。自分よりもなにかを書くべき人間を、自分よりもおもしろい人間を、これまで腐るほど見てきた。そういう奴ほど、書くこと、書き続けることに挫折して消えていった。

 才能がありすぎる人間が、書きながら生き延びることはあまりにも難しい。例えば、塚本邦雄にとっては杉原一司が、松本圭二にとっては鎌田哲哉が、そういう存在だったのではないかと思う。僕にとってもいくらか、そういう存在がいる。

 僕は今も書いていて、これからも書き続けるだろうが、それは廃人であるということで、詩人であるということではない。



 僕はいつまでも、詩を損切りすることができていない。傲慢な物言いなのはわかっているが、詩的な感性は、生きる上での足枷になっているのではないか、という思いを捨てることができない。

 僕はYouTubeに動画をアップして金を稼いでいるが、動画で金儲けをするときの基本ラインは、ポルノ的なもの、宗教的なもの、自己啓発的なもの、であって、それらを拒む詩人的な感性はいつも、自分の仕事の進みを遅くしている。

 僕が詩に執着しているのは、僕が僕自身の感情に執着しているのと、ほとんど変わりがない。やればやるほど自分が駄目になっていく、と思うのも、マゾヒスティックな感傷にすぎない。

誓って言うが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である、正真正銘の完全な病気である。
ドストエフスキー『地下室の手記』

 感情は何の役にも立たないのだろうか。僕がほんとうに書きたいと思っているのはいつも詩で、自分が作るものはすべて詩なのだが、それを言うのは勇気がいる。自分にとって詩を書くことが必然的である、というだけのことで、それを世界に対して書き込む権利が、一体どこにあるだろう。

 感情を書くことには深い業がつきまとう。僕がどれだけ傷つきやすくても、誰も僕のことを買おうとはしない。僕の詩はダイヤモンドでなければならないが、僕自身はダイヤモンドではない。書き手と作品は似ていればいるほど引き裂かれ、遠く隔絶される。

 5

 吉本隆明の代表作ともいえる詩に「廃人の歌」という一篇がある。

ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ
吉本隆明「廃人の歌」(『転位のための十篇』より)

 このような「妄想」だけが、廃人でしかないはずの自分を、辛うじて生き長らえさせている。吉本の「妄想」も、はじめは決して勇ましいものではなく、〈廃人/mania〉の消去法的な自己正当化にすぎなかったのではないだろうか。

 この詩は、引用部だけを抜き出して読めば、美しく強い詩のようにも思える。だが、全篇を読んだときの印象はまるで違っている。

 改行が存在せず、一字開けの連続で書かれたこの詩は、戦後詩的な強い主体と話法で書かれた『転位のための十篇』の中でも特に早口で性急な印象を与える。質感はくすんでおり、美しいとはとうてい言えない。そしてその質感をこそ、僕は真実だと思う。

 ほんとうは僕のこころは廃人で、何も手につかない部屋のなかで、取るに足らない小さなつぶやきをぼそぼそと繰り返している。僕は詩人のふりをするために、かけらを拾い集めて、ダイヤモンドのように加工する。

 僕の詩がたんなる自己満足ではない、ということを証明してくれるのは、僕の詩以外にはありえない。これから書かれるはずの、完璧な一行によってしか、僕は僕の孤独を癒すことができず、それまでは廃人の歌を歌いやめることがない。

サポートしていただけると、そのお金で僕は本を買います。(青松)