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boku to sekai

(注:2021年夏に書いた、自作の短歌についての制作メモ的な文章です。iPhoneのデータを整理していたら見つけて、良いなと思ったので残しておきます。当時は「Y2K」とか言われだしたくらいの時期だったのかな。)

〈世界が終わるまでに聴いておくべきエレクトロニカおすすめ65曲〉を 上から順番に
青松輝「days and nights」(『いちばん有名な夜の想像にそなえて』)

 〈65曲〉というのは多すぎるし、〈上から順番に〉で最後まで聴き終えれるとは思えない。それが「本当は来ないのだろうけど……」と思われている世界の終わり、に対する微妙な無力を、予感させる。世界の終わりが来た方がまだマシだといってもいい。その終わりは〈エレクトロニカ〉の音と共にやって来るだろう、しゅわしゅわ音をさせながら、つまり、やって来ないだろう。セカイ系っぽいな、そう思いながらセカイ系をやっている、主人公のフラジャイルさ。

なにもかもわかる(青春みたいだね)。違法アップロードのデスノート
青松輝「days and nights」

 この歌の、全能感を、よくある全能感と知りながら一応やってます、みたいな感じは、前の歌の無力感と裏表になっている。世界に、あるいは恋人に対する、全能さと不能さの終わらない往復を、「セカイ系的」の謂だと言おう。〈僕〉の未熟な精神が、他者をすべて一緒くたにして、一人一人の差異に目を向けられなくしてしまうような、甘美な抑鬱と躁急。いつでも簡単に「違法アップロード」されたり「デスノート」に書かれたりしてしまう、僕たちの生活や人格や文体。

 いまは2020年代で、「2020年代を刺せるようなことば」を書きたい気持ちが強くある。そのために、自分が影響を受けてきた00年代の短歌やサブカルチャーから吸収してきた世界の見方をうまく書きたい。その最たるものが「セカイ」であり、ロキノンであり初期ボカロでありエレクトロニカでありポストロックだといえる。いまのシティポップ全盛、エモ全盛の雰囲気はあくまで流行であって、必ず終わりが来る。自分はゼロ年代の遺産をすべて連れてきてサブカルを破壊したい。単なるリバイバルではなく。

 たとえば、短歌においても「ゼロ年代」というものの空気は如実にある。たとえば、これらの短歌がそうだ。

恋人のあくび涙のうつくしいうつくしい夜は朝は巡りぬ
穂村弘「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」(2001)
The world is mine とひくく呟けばはるけき空は迫りぬ吾に
黒瀬珂瀾『黒燿宮』(2002)


 このあとに来る、00年代後期の流行とされる「空気系」「日常系」と呼ばれるような生活感、またその延長に10年代の「なろう系」「異世界もの」のファンタジーと日常の混合があるとして、どれもカジュアルで情報量が多い。

牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女の子をふつうに好きだ
宇都宮敦「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」(2005)(歌集は2018年に出版)
食パンの耳をまんべんなくかじる 祈りとはそういうものだろう
笹井宏之「えーえんとくちから」(2011)


 自分の美的/倫理的な好みはこのような短歌たちとは逆の、00年代前期っぽい、ソリッドなもの、シンプルなもの、ミニマルなもの、の方にある。「セカイ系」といわれるものの、日常がセカイと溶け合ってヴァーチャルな空間が生まれるようなビジョンは自分の趣味に合っている。

 〈セカイ系〉の問題とは、つまり、世界と自他と愛と倫理と、いろんなものの境界線が曖昧なまま背負わされている〈僕〉の問題であって、SNSが全盛になった現在にもポスト-セカイ的なものは回帰しつづけている。

 今、この2021年は、まさに〈セカイ〉的になっている。SNSと世論はストレートに結びつき、SNSでつながった僕とあなたのデートがそのまま感染を拡大させる。ウイルスは〈セカイ〉を終わらせるだろうか?

 個人の資質のレベルでもそうだ。日常生活でも、恋愛でも、仕事でも、自分が何をしたいのかよくわからず、にもかかわらず世界のために〇〇してはいけない、〇〇してあげたい、ということばかり沢山出てきてしまう自分の、自分だけの感覚や孤独のことを知るために、〈セカイ〉と〈僕〉、あるいは〈きみ〉と〈僕〉の関係について考え続けて何かに出会う、そうして、ただの人間には興味ありません。この中に、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上

サポートしていただけると、そのお金で僕は本を買います。(青松)