タイス、おかえりパステウ
パステウをご存知だろうか。
薄くのばした生地に、牛ひき肉、チーズ、トマト、玉ねぎを煮詰めたものを角形に包み、大量のラードでサクッと揚げる。10歳の私は、このブラジルのソウルフードにすっかり心奪われた。
なぜブラジルに行ったことのない、それどころか日本から出たことすらなかった私が、パステウを知っていたのか。少し話してみたいと思う。
◇
タイスはその大きな体をゆさゆさ揺らしながら、ラードの海をおよぐパステウたちを器用にひっくりかえす。
タイミングが大事よ。タイスはいう
一回しかひっくり返すことはできないの。肉汁が溢れてきてしまうからね。
10歳の夏、私は空腹を抱え歩いていた。ふと見ると、最寄りの駅前に小さな屋台がある。あたりはものすごくいい匂いに包まれていた。私は食いしん坊だったので、好奇心に勝てず近づいていった。どうやらブラジルの郷土料理を売っている店らしい。
私、タイス。あなたのお名前は?
突然、話しかけられたので驚いた。おそるおそる、名乗る。タイス、あの時からあなたは、本当に気軽に話してくれたよね。
一番人気?それは、やっぱりパステウでしょう。タイスは私の顔の前に大きな正方形のパイのようなものを掲げてみせた。それを、油にジャーーンと入れる。
初めて食べたパステウの印象。顔を近づけると濃いラードの香り。一口目は揚げたてのパイ生地がサクサクと楽しい。二口目は、とにかく肉肉しい。牛肉は手挽きだろうか、スーパーには売っていない粗挽きタイプだ。そこに様々なスパイスがよく絡む(のちにそれは、バジル、オレガノ、コリアンダーだとタイスが教えてくれた)。三口目はジューシーだ。肉汁とトマトとチーズが溶け合ったものが、口の脇からとろりと溢れ、舐めとるのに必死だ。残りをざくざく噛んで飲み下すと、遠くでほんのり甘い。
それのなんと美味しかったことだろう。私はそれ以来、授業中や、友達と遊びながら、寝る前ですらも、パステウのことを考えた。
タイスはなんでも話してくれた。ブラジルからきたこと。今の恋人と一緒に住むため来日したこと。この町が好きなこと。ブラジルにはたくさんの美味しい料理があること。
私たちはすぐに友達になった。
私が平日の昼間にタイスの店を訪れた時、彼女は目を丸くして驚いていた。どうしたの、学校は?
私はクラスに馴染めず、休みがちになっていることをタイスに打ち明けた。
タイスは、そう、そう、と私の足元を見ながら聴いていた。ふう、と息を吐いて、パステウを取り出し、揚げ始めた。今日は私の奢り。
まん丸の手で私の手を包み込むようにパステウを手渡した。
美味しいもの食べたら、笑顔になるでしょ。私、微熱に笑顔になって欲しいの。
濃いアイシャドウをのせた瞼でウインクしてみせた。さあ、熱いうちに食べて、たべて。
店は繁盛していた。タイスはいつも沢山の人に囲まれていた。学校でも、美味しいお店があると噂になり始めた。タイスの名を毎日聞くようになった。
私は、もうタイスと二人だけで話すことはできないんだ、と寂しく思いながらも、彼女が成功してゆく姿を見るととても誇らしかった。
◇
いつの頃からか、定かには覚えていない。
学校でタイスの名を聞く時、妙なことを言いはじめる子が出てきた。
知ってるか、タイス、女と付き合ってるんだぜ。
知ってる、俺、キスしてるところ見たぞ。
私の胸は重たい鼓動を立て始めた。さっぱりわからない。女なのに女と付き合うことなんてできるのだろうか。そんなこと有り得るのだろうか。
次の日、駅に用事があって行くと、タイスと目があった。タイスは笑顔でこちらに手を振っている。私はその場を早足で通り過ぎて行った。視界の隅に、タイスの寂しそうな顔が見えた気がした。
タイスは女の人と付き合っているんだって。
女なのに、彼女がいるってこと。
へんなの。
気持ち悪い。
クラスメイトは口々に言った。一人の子が私に向かって行った。
タイス、なんかムカつくね。
わたしは、あわてて
ね。
と言った。
自分でも驚くほど自然に言ってしまったのだった。
その頃から、タイスの店には、乱暴な言葉を使う客が来るようになった。時に激しくタイスを怒鳴る人がいた。かと思えば、優しくなだめる人もいた。タイスはその度に長く泣いた。彼女は人前で泣かない。屋台の後ろに隠れて気がすむまで泣く。私はベンチに座って、タイスがパンパンに腫れた目をして出てくるまで辛抱強く待った。
タイスは私を見ると少し恥ずかしそうに、あら、はいはい、パステウね、えーとパステウパステウ・・・と冷蔵庫を開けたり閉めたりした。パステウを揚げているタイスは以前と比べて覇気がなく、いつも上の空であった。しかし、私は子供だった。そんなことは御構い無しに、タイスのそれが食べたくて三日にあげずその店に通った。
ある時、タイスは私に言った。
「私のパステウが特別なのはね、バナナを入れてるからなのよ」これは絶対に秘密だからね。
私は、頷いた。そして白状することにした。「学校でタイスの悪口に頷いてしまった」タイスは、いいのよ、と言って泣いた。そういえば、タイスはとても太った。その体は、悲しみで今にも弾けてしまいそうなほど大きく膨らんでいた。
◇
中学に上がり、私は今までに感じたことがない気持ちに気づき始めた。女性に触りたい。髪の匂いを嗅ぎたい。手を繋いでみたい。そして次の瞬間、私はそれにまつわる全ての感覚を嫌悪した。
このままではタイスのようになってしまう、と恐れる自分と、タイスを差別していた人たちのようになりたくない、という自分が完全に乖離してぶつかりあった。結局、私はクラスで席が隣になった男の子に恋心を抱いていると思うことにした。
私が高校1年生の時だ。(私は高校に入ってもまだタイスの店に通っていた!むしろ、以前よりも駅を利用する頻度が高くなったため、お小遣いのほとんどをパステウにつぎ込んでいた。)
店に行くとタイスは元気がなかった。あなた、パステウかしら。
私の顔を見るなりパステウを揚げ出す。
パステウを茶色のクラフト紙に包む。紙にはみるみるうちに、油がにじむ。熱いから気をつけて。
タイスはいつものように、まん丸の手で私の手を包み込むようにして手渡す。
ありがとう。
タイスは少し躊躇して、小さな声で言った。
あのね、私ブラジルに帰ることにしたの。別れたのよ、あの人と。
私は驚いてタイスを見た。タイスは困ったような顔で私の足元を見つめていた。
もう、指をさされるのに疲れちゃったんだってさ。
私はまだ子供だった。何を言えばいいかわからなくて、ただ思いついたことを言ったのだと思う。
別れても、ここで店をやればいいよ。
タイスは微笑んで首を横に振った。
あの人がいないなら、ここにいる理由はないもの。店を続ける必要なんてないわ。
タイスの決断は早かった。看板は取り外され、屋台はみるみるうちに畳まれた。ただの広場になったその場所にはその後、たこ焼き屋ができたり、クレープ屋ができたり、かと思えばまた元のがらんどうの広場に戻ったりした。私も上京を機に、その町を出た。
◇
それから10年後。私は地元の旧友に会いにその町をもう一度訪れた。
駅前はすっかり変わっていた。大きな市立病院ができるに伴い、駅も大改装したのだそうだ。バス停ができ、改札は1つから5つになり、ガードマンまでいた。すっかり変わったなあ、と感動していると、ふと、広場の事が気になった。広場はまだあった。そしてそこには大きめのフードトラックが停まっていた。何が売られてるんだろう。近づいて行くと、なんとも懐かしいラードの香りがした。
タイス!!!
驚きのあまり叫んでいた。タイスはこちらを見てWOWと言い、トラックから出てきて私にビックハグをした。
あなた、もう会えないと思っていたわ。
私も。タイス、ブラジルに帰ったんじゃなかったの。
ロングストーリー、とタイスは笑っていた。
タイスはあれからブラジルに帰り、少しの間、家族と暮らしていたそうだ。しかし、思い出すのは、いつもここにパステウを買いに来るお客さんのことだった。いてもたってもいられず、また日本に飛び、貯金をはたいてフードトラックを新調した。移動販売を始めてからお客さんは増え、従業員を雇うまで成長したという。
私、パステウを作るのが好き。この町でもっともっと活躍したいよ。差別なんかに負けないよ!
私もタイスのパステウが好きだよ、私は言った。そしてきっとたくさんの人がこの店のファンなのだろう。タイスは翌月、2号店のオープンを控えていた。
新しい店では、メニューも増えていた。ブラジルのバーベキュー「ピッカーニャの炭焼き」、鶏肉とキャッサバのコロッケ「コシーニャ」、臓物を豆と煮詰めた「ドブラジーニャ」、モチモチのパン「ポンデケージョ」・・・
でもやっぱり私はこれだ。
「パステウ・デ・カルネ、ひとつ。」
これね。タイスは、あの正方形を取り出して、油にジャーーンと入れる。
あの頃とサイズも中身も変えてないからね。そのために、私がどれだけ苦労したか・・・!と泣き真似をする。
最近の物価は鬼だからね、とわたし達は笑い飛ばした。
私は、タイスにずっと隠していたことを話すことにした。
女性も男性も同じように好きであること。女性と寝たいと思うこと。それを長い間恥ずかしいことだと思い、隠してきたこと。家族にも、タイスにも。
タイスはただ、じっと、私の足元を見ながら聴いていた。そして、私の話が終わると言った。
これからも隠していくの?
たぶんね。わたしは答えた。
そう、不安なのね。
タイスはふう、と息を吐いた。そして、まん丸の手を私の手の上に重ねて言った。
わたしを見ていて。あなたが自分を誇れるように、懸命に生きるから。
濃いアイシャドウをのせた瞼でウインクしてみせた。
さあ、パステウが冷めちゃうよ。早く食べて、食べて。
口元に持って行くと、やっぱりあの頃のラードの香りなのだった。
子供に指を刺されていたタイス。客に怒鳴られていたタイス。それでも、パートナーの隣にいることをやめなかった彼女を、私は見てきたのだ。
タイス、私には何ができるだろうか
全然わからない。嘘だ、本当は知っているのだ。できることはたくさんあるということを。
だから、少しだけ踏み出そう。まずはこうして、ここに書くことから始めよう。
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