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夕日照らすオムレツに導かれ

ちょっとは食べない?

マニュエルが私の部屋をノックしながらいう。西日の中、私は目を覚ました。もうこんな時間か。


この一週間、朝から寝てばかりいる。今日は、お昼から誘われて、すでに2度も断っていた。3度断ればさすがに、と声を出しかけた私の鼻にぷん、と卵の香りがしてきた。揚げた卵の香ばしい香り。マニュエルの得意料理だ。一度、この家にきたばかりの時に食べたことがある。


私はもう少し眠っていたかった。眠っていれば何も考えなくて済む。


それでもやっぱり抗えなかった。ガバッと布団をめくって、部屋から出る。服は着たまま寝ていたからヨレヨレになっていた。それでも気にしない。あれが冷めてしまう前に早く。

やっぱり、これを作ると出てくるね。
マニュエルは笑っていた。


今から5年前。私は、ドイツのケルンという街に住んでいた。ノルウェーで付き合っていた彼に婚約を解消されたあと、ドロドロに溶けそうな身体を引きずって、逃げるようにしてきたのがこの街だった。何にも馴染めず、誰とも話そうとしない私を受け入れてくれたシェアハウスがあった。クリアというマダムが暮らす一軒家。そこにすでにお世話になっていたマニュエルは当時27歳のスペイン人だった。


僕に任せれば大抵のスペイン料理はできるよ、なんていう上に端正な顔をしているもんだから、クリアもうっとり。うちに住んで、住んで、と私は月500ユーロも払っているのにこの男は200ユーロで迎えられている。ケルン郊外のでかい一軒家には、キッチン付きの広いリビングと4つの寝室、ドッグランができるだけの大きな庭と地下室があり、私たち2人を収容するのにわけない。


クリアには内緒だよ。
マニュエルは真剣な顔つきでいう。これを一回でも作るとさ、毎日作れってうるさいんだ。誰でもできる簡単なものなのに。


簡単じゃない。これはマニュエルしかできないだろう。外国人に味噌汁の調味ができないように、いくら簡単に思えてもネイティブにしか操れない慣れ技というものがある。皿を覗き込んだ。これこれ。中でつやつやと完成しているのは、スパニッシュオムレツだ。


フライパンにたっぷりのオリーブオイルを注ぐ。以前、そんなにいれていいの?と心配になって聞くと、まずいオムレツが食べたいの?と聞かれる。こりゃあ驚いたね、という顔で。


しかし、その時のマニュエルから見た私の描写はこうだろう。微熱はいつもするように、気力のない笑みを浮かべて首を横に振った。私はその頃、どんなジョークにも凍りついたような反応をしていた。まるで、自分から笑みを引き出そうとする要素を一切拒絶するかのように生きていた。


オリーブオイルの中によくよく溶いた卵8個を流し込む。塩、胡椒をたっぷりとふりかける。少し経ったら、刻んだばかりの新鮮なトマトとざく切りの玉ねぎを上から散らしてそのまま揚げ焼き。卵の中にオイルがしっとり染み込んで、外側がサクサクになったら出来上がり。これぞ本物のフライドエッグという感じなのだ。



食欲がないときこそ、これだよ。僕はこれを残した人を今まで一度も見たことがないよ。
さく、さく、さくとナイフでいい音を立てながら切り分ける。西日がリビングルームに直に差し込み、卵を黄金色に光らせていた。
さあ、食べちゃおう。


取り分けられたオムレツにフォークをさす。サック、と揚げ物にお箸を刺した時と同じ音がしてどこか懐かしくなる。一口。外側は見事に揚げられていて、中はふんわりと油が滲んでいる。トマトや玉ねぎがあるので、思っているほど重く感じない。これ、好きだなあ。おいしいな。思っても言わなかった。誰にも期待して欲しくなかった。させたくなかった。



僕も忘れるのに必死さ。マニュエルが出し抜けにいう。
婚約こそしていなかったものの、5年も同棲していた彼女と別れてすぐにドイツに来たという彼。
逃げてきた、っていいたくなるの、わかるよ。僕もそう。


肘をつきながら、だらだらとオムレツを食べる夕方。大きなスクリーンみたいに広がる窓の外、西日がどれだけ強くともそれを見なければいけないかのように、2人して夕日をにらんでいた。


すると、そこへさっと視界を遮るものがあった。
今の見た?みた。たしかにみた。
早かったね、一瞬だった。でもいたよね。いた。


ハイヒ・ハーン・ヒェン


キタリス。日本で言えば北海道に生息しているエゾリスによく似ている。真赤い体は木の幹と見分けがつかず、胴体よりも大きな尾っぽを翻らせて走る。そのすばしっこさからそれを見たものには幸運が訪れるとされる動物。


口をあんぐり開けている私を見て、マニュエルがケラケラ笑う。ぼーっとしてる暇はないよ。さあさ、食べちゃおう。
2人とも満腹になった。なんせたっぷりのオイルがしみた卵8個分もあるのだ。


フォークを投げ出して、椅子に思いっきりもたれかかる。西日は沈みきって、部屋はグレーに染まり始める。マニュエルがつけたラジオからは、ジュニップのDon’t let it passが流れていた。
それでも日は沈み、また日は上る・・・か。マニュエルは薄暗闇のなかでつぶやく。スペインなまりの、美しい英語だった。


さあ、これからどうする?


そう聞かれて私は、すう、と息を深く吸ってみた。



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