社会になじめずにいる君へ
子供のころから集団的社会生活が苦手でした。
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初めて挫折を味わったのは、小学6年生でした。そのころ私は中学受験を目指して、4年生の時から塾通いをして3年目の新学期を迎えていました。受験生となった6年生の4月、年度初めての塾の日でした。その日、遅刻をして行った私は教室のドアをあけようと、取っ手に手をかけるとドアの小窓から中の様子を目にしました。先生が大声で生徒を鼓舞し、生徒たちは『必勝』と書かれた鉢巻をして机に向かっていました。まさに受験戦争と呼ばれる景色でした。
4年生から通いはじめたその進学塾では、ノートのとり方や復習の仕方など勉強の基礎を丁寧に教えてくれ、先生も授業の合間にイメージしやすい余談を挟んだり昔話を聞かせてくれるなど、勉強の楽しさを教えてくれる場所でした。
しかし、その日わたしが目にした教室の中の光景は、勝ち負けを競う張り詰めた空気が立ち込めていて、楽しくお勉強する和やかさなど微塵もありませんでした。受験戦争という名の空気にわたしはおじけづき、結局教室に入室できず家に帰りました。その日から塾へ行かなくなり、中学受験を辞めました。
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地元の公立中学校へ進学したわたしは、1年生の頃はそれなりの学生生活を過ごしていました。しかし、2年生になった頃クラスの目立つ女の子に嫌われて陰口を言われていることに気がつきました。同級生の男子たちにも言葉でからかわれはじめ、次第に学校へ行くことが億劫になり、中学2年生の5月ごろから不登校になりました。朝、制服に着替えて登校するふりをして家を出て、共働きの両親が家を出た時間を見計らい、家に戻ります。家では何もせず制服を着替える気力もなく、ただ時間がすぎる間じっとし、下校時刻になると制服を脱いで学校帰りをよそおい、両親が帰宅するのを待ちました。私は不登校であるという事実よりも、同級生に嫌われていて、からかわれているという事実を両親に知られたくありませんでした。両親が不登校の理由を知るとおそらく困惑し、悲しむだろうと思ったからだと思います。わたしのプライドもありました。そんな日々を一学期のあいだ繰り返した頃、担任の教師から両親に連絡が入り、不登校が知られることになります。
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わたしが学校へ行かない理由を教師にも両親にも言えないまま夏休みに入りました。夏休みの1ヶ月どう過ごしたのかは今はよく覚えていません。ただ、1学期中頭を悩ませていた同級生たちのことばかりを考えて憂鬱だったことは覚えています。夏休みも残り少なくなった頃、年の離れた姉が買って部屋の隅に置きっぱなしにしていたティーンズガールズのファッション雑誌をなぜか手に取りました。そこには、ハンドメイド作品として、ビーズを使ったヘアアクセサリーとオーガンジーを使ったトートバッグの簡単な作り方が載っていました。私は無性にそれらを作りたい欲求にかられ、すぐに駅前の手芸店へ走りました。似た材料を揃えてその日の夕方から作り始めました。家庭科の授業以外で初めてそのようなものを手作りしたので、2-3日はかかったでしょうか。雑誌の綺麗な作品とは比べものにならないほど見劣りしていましたが、それでも髪に付けられるヘアアクセサリーと強度はないけども袋状のトートバッグが完成したことが嬉しかったです。わたしは姉の部屋で少し自慢した後、お風呂場へ行きシャワーを浴びました。夕方の光が窓から指す浴室で、シャワーを頭からかぶりながら、ふと思います。嫌なことばかりが何ヶ月も頭の中を巡っていたが、この数日はそのことをすっかり忘れて、楽しい時間に熱中していた。嫌なことがあるという現実は自分では変えられないが、楽しい考えで頭を満たしている時間の方がずっと良い!
わたしはその時、はじめて自分だけの解決策を見つけました。
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二学期に入りわたしは学校へ行けるようになりました。嫌な人はいるがその人たちのことを考えなければ良いのだ。その後はとても楽になり、その気持ちで行動していると、陰口を言っていた女子も、からかってきた男子もなぜかわたしへの態度が変わり、嫌な思いをすることが無くなりました。それだけではなく、体育祭の旗のデザインをクラスメイトと担任の教師から任され、その時に一緒に旗を描いたメンバーたちととても仲良くなりました。その中の2人とは、25年経った今でも交流が続いています。その友人からは『本当はあなたのことを陰で悪く言っている女の子が苦手だったの。』と後に聞かされました。
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仲の良かったメンバーは皆それぞれ別々の高校へ進学しました。受験戦争が苦手なわたしはあいもかわらず、やはり受験シーズンに入るとそれまで親に通わせてもらっていた塾へ再び通えなくなりました。3年生の夏前の期末テストでA判定だった志望校に不合格し、すでに受かっていた私立のお金持ちの家の子が多く通う高校へ通うことになりました。
エスカレーターで中学から上がってきたクラスメイトとはやはり雰囲気が異なり、庶民丸出しの持ち物で通っていたわたしですが、それでも1年生のころはそれなりに楽しめ、体育祭や文化祭も積極的に参加しました。2年生になり、コース別にクラス分けされた頃、少し異変が出てきます。2年生になったばかりにも関わらず、難関国立大学の入試問題のような授業が始まりました。数学の一問を解くのに何十行も回答しなければならず、勉強についていくことが必死だったころ、癌で闘病中だった父親が仕事を退職しました。余命が少なかったので、残りの人生を身体が動くうちに自由に過ごしたいという理由でした。
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余命があとどれくらいか分からず、大きな手術や抗がん剤治療、時たま湯治に出かけたりして真正面から癌と向かいあう父と、介護休暇をとりながら父を支えている母を見ていると、わたしの中にふと疑問が湧いてきます。人生には限りがあるのに、わたしは本当にやりたいことに時間を使わなくて良いのだろうか?学生の本分は学業です。高校生のわたしは第一志望の高校ではないにしろ、闘病でお金が入り用の両親に私立の高校へ通わせて貰っている。普通なら、高校へきちんと通い卒業して進路を決めるべきです。しかし多感な高校生時代、わたしはある考えに偏ります。高校を中退して何か意義のある時間を過ごした方がよいのではないか。その考えは数ヶ月間続きます。次第に勉学に力が入らず、入学当初学年で3位だった成績が、下から15番目まで落ちて行きます。勉強をする気がおこらない。
高校を中退するなんてそんな危険なことは、のちの人生に大きく関わってくるだろう、わたしはとても悩み、葛藤が続きます。父と口論した結果、意志が固まり、わたしは高校2年生の9月私立の進学校を中退しました。母は最後まで反対しました。
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17歳の9月、わたしは高校生を辞めました。
念の為という理由で大学入学資格検定(当時の大検)にその年の12月に合格し、大学進学の道を残しました。しかしわたしは大人になった今も高校卒業資格は持っていません。
それからは輸入アクセサリーの小売店でアルバイトをしながら、休みの日は家で父親が元気な日は少しの時間カードゲーム(おもに花札かソリティア)をして過ごしました。死を背負っている父はわたしにはとても恐ろしく感じられ、長い時間を一緒に過ごすことは過酷でした。父親の寝室に入れずに何度も目を背けながら、自分の部屋へ逃げるように駆け込んだこともありました。大きな手術も何度かあり、入院中には病室で読める本や漫画を姉と選んで差し入れしました。若い医師が年上の父に、子供をあやすような声かけが気に入らなかったこともありましたが、今思えば丁寧に診てくれた恩のある先生だということも理解できます。
父親が還らぬ人になったのはわたしが19歳になる年の2月のある日でした。受験勉強などろくにしなかったわたしですが、父は私が大学へ進学することを望んでいた為、実家から通える距離の大学を適当に選び受験した試験日が、その日となりました。
試験日は二日間あり、京都の試験会場で1日目の科目の試験を全て終え駅へ向かう途中でした。ふと父の入院している病院へ寄ってから帰ろうか?と頭に浮かびました。当時父は京都の大学病院に入院していたので、電車で何駅か乗って会いに行くのは簡単でした。しかしその日はなぜか明日の2日目の試験の科目が全て終わってから、明日会いに行こうと考えが変わり、大阪の実家の最寄駅を降りてショッピングセンターの中を歩いている途中でした。携帯の着信音がなり、画面を見ると母親からでした。受話器をあげるボタンを押して、電話に出ると、母親の声が語ります。
『さっき、お父さんが亡くなった』
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『お姉ちゃんは連絡がとれ、今病院へ向かってくれている。あなたは、何度も電話をかけたけど、繋がらなかった。今どこにいるの?』
『あ、◎◎駅に今着いて、ショッピングセンターの中、、、』そういえば、電車内だからと電源を切っていて、駅に着いてから電源を入れていた。
『なら家で待っていて、お父さん連れて帰るから』
家に母と姉、そして父が帰ってきました。父は横たわったままでした。
わたしはどうして、今日試験が終わってすぐに病院へ行かなかったのか?試験会場から病院までは電車で数十分の距離だ。すぐに行っていれば、死に目にあえたかもしれない。最後に言葉を交わせたかもしれない。父を看取ってあげられたのに。涙が止まりませんでした。
葬儀屋の男性が綺麗にしてくれた父は、まだ温かいままでただ眠っているだけのように見えました。わたしはぬくもりがあるかもしれないと思いながらも、怖くて父の頬に触れることが出来ませんでした。
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試験日2日目、父がわたしの大学進学を希望していたと気持ちを奮い立たせ、会場に向かいましたが、結局答案用紙を前にしても、涙が溢れ出るばかりで、文字を見ることが出来ません。泣いて泣いて泣いて。
一科目目の試験時間の間、何度もハンカチで涙をぬぐいながら耐え、時間終了の合図とともに席を立ち、会場を出ました。わたしはもう試験を受け続けられる精神状態ではありませんでした。すぐに帰宅し、母に試験を放棄したことを伝え、お通夜とお葬式の準備に取り掛かりました。
わたしが父親の死から立ち直るまで2年近くかかりました。その間、母は仕事に復帰し、姉も仕事をしながら夜間の学校に通うなど自分たちの人生を歩みはじめていました。
わたしは大学も行かず、派手な髪型やピアスを何個も開けて、ふらふらと時間を過ごしていました。幼いころに父が『お前は頭が良いな』と褒めてくれていたわたしはどこかへ飛んでいってしまいました。たまに自分が悲劇のヒロインにでもなったように、泣く日がありました。わたしの人生には何もない。夢も希望も未来も見えない。かつての同級生が大学生活を謳歌しているのを見ては羨ましく思いましたが、高校2年生の9月に決めたのは自分自身でした。中退後すぐに友人に教えられて、波乱の末に弁護士になった大平光代さんという女性の講演会を観覧したこともありましたが、弁護士になれるほどの頭脳も努力の才も持ち合わせていません。わたしには追いかけることも望めないほどの人でした。
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19歳になる年、中学の同級生と会うことになりました。何がきっかけでそうなったかは今は覚えていません。お母さまが学校の先生でその子も成績がよく部活動も楽しく頑張っていた女の子でした。ご飯を食べながらお互いの近況を話し合いました。それから何度か会ってご飯を食べる中になり、いろいろな話題が出ました。彼女は中学生の頃わたしのことをすごく暗い子だと思っていたこと。話してみると意外と明るい子だとわかったということ。塾の模試でA判定を出したわたしにすごく驚いたこと。お互い古着が好きだったので、一緒に古着屋に買い物に行ったりもしました。彼女は彼女の母親と同じ教員免許を取るために、国立の教育大学へ進学していました。あそこ偏差値高いのに凄いね、とわたしが褒めると、偏差値が高いことを知らない人にとっては大学の名前なんて別に関係ないよ、とあっさりした返答が返ってきました。
そしてなぜだかその子が通っていたという予備校の名前が気になり、何処の予備校通ってたの?と何気にきいてみました。もちろん彼女は現役合格でしたが、浪人生も通っているときき気になりました。
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それから大阪駅前にある大きな本屋に行き、大学名鑑を閲覧しました。驚いたことに日本には、膨大な数の大学があるとその時初めて知りました。とりあえず、実家から通える距離の大学を探してページをめくるとあるページに目が止まりました。そこは京都にある仏教を教える大学でした。父親の法要でお坊さんやお経と接していたわたしは、お経にどんな内容が書かれているのか?なぜお経を唱えるのか?不思議に思っていました。仏教を教える大学なら、そういったことに触れる機会があるかもしれないと、ほんのわずかな興味が湧き、その大学の名前とどんな学部があるのかを注意深く見ました。小さな文字で心理学の文字があり、高校1年生の進路相談でそういえば心理学を学びたいと言って、担任に却下された小さな記憶を思い出しました。心理学なんて学んでも就職に役に立たない、という理由でした。わたしはとりあえずその大学の名前を頭に留められるようによく目に焼き付け記憶しました。
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本屋で大学の名前を記憶したのは秋も深まる頃でした。その後すぐに大学受験用の問題集と参考書を購入し、久しぶりに勉強机に向かいましたが、勉強から長く遠ざかっていたわたしには大学入試を受けるレベルの学力はおろか、中学一年生レベルの英語でさえ難しく感じるほどでした。けれど、わたしの中には小さな希望が芽生えているのを感じていました。友人が口にした予備校の名前だけが頼りでした。母親に気持ちを伝え、予備校一年間の費用を出してもらえないかと頭を下げました。母親がどんな表情だったのか覚えていませんが、手放して喜んではいませんでした。わたしが勝手に中退を決め、その後もご近所で歩けない程の派手な格好で、大阪の繁華街へ通っていたことを知っているから当然です。わたしは気が小さいので、犯罪に手を出したり水商売の道へは進んでいませんでしたが、母親からしたら自慢できる娘像ではありませんでした。再び受験戦争の空気に負けてしまうかもしれないと想像してたのかもしれません。ただ学費は出すと言ってくれたのは覚えています。
半年間我慢し、受験シーズンが終わり予備校生の募集が始まり出した頃、予備校入学の試験を受ける日が来ました。物凄く緊張しながら電車に乗っていたのを覚えています。つい先月まで高校生だった子達とは違い、明るく染めた髪に派手な化粧、カラーコンタクトとピアスをした奇抜なファッションのわたしが難関大学合格を目指す予備校生たちに交わることができるのか。いやその前に予備校に入れるだけの学力は残っているのか?とても不安でした。電車は30分ほど遅れ、わたしは予備校に入りました。窓口で試験を受けに来たこと、電車が遅れ試験開始に間に合わなかったと伝えると、午後からの試験を案内してもらえました。そして、遅延証明書を貰う癖をつけなさいとアドバイスしてもらえました。
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午後から受けられることになった試験問題はちんぷんかんぷんでした。はっきり言って、高校まで頑張って勉強していた時間は何だったんだというくらい、わたしの学力は落ちていて、採点されるのが恥ずかしくなるほどでした。しかしとりあえず入校できることになり、これから浪人生活がスタートすることになりました。後に人から、入学テストはカタチだけで、落ちる人なんてほとんどいないと聞かされました。それでも、やはり緊張したのは事実でした。
前年の秋に本屋で覚えた大学は私立の大学だったのですが、とりあえず学費の面からという理由で、国公立大学を目指すコースに入りました。のちに考えると国公立大コースは文系理系両方の勉強が必要になるので、私立の文系学部が第一志望なら時間と労力を分散してしまい間違った選択だと気づきましたが、その頃のわたしは何もわかっていませんでした。
一年間の浪人生活は偏差値で別れたクラス分けで1番下のクラスからスタートしました。数学、現代文、古文、英語、日本史がおもな教科です。クラスメイトは人気の高い予備校講師の授業を受けたがっていましたが、わたしはいわば渇いたスポンジ状態です。どんな先生からも学べると思い、講師では選ばず、授業時間が効率的に取れる時間割にしました。例えば、1日1授業だけの日などは作らず、1日に多くの授業数を組み入れ、1日空いた日は自習にあてるなどにしました。クラスメイトが馬鹿にした人気のない講師が、ふざけた替え歌を作ってきても、五段活用を覚えるには言われた通りしよう!と変な替え歌を必死でお風呂で歌いました。
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春が過ぎ初夏が過ぎ夏期講習が終わったころ、何人かのクラスメイトが来なくなりました。予備校を変えたのか、大学進学を辞めたのかは分かりません。わたしは自分のことで必死で周りを気にする余裕はありませんでした。仲の良いクラスメイトも3人ほどできました。しかし、彼らは19歳でわたしは20歳でした。年齢のことは恥ずかしくて一つ年上だと言い出せず同じ学年のふりをしていました。敬語を使われるかもしれないという不安もありました。社会に出ると一歳の年の差はあまり気になりませんが、学生時代の一歳はとてつもなく大きな壁のように感じてしまいます。
(数年後に彼らには告白できるチャンスがあり伝えると、実は当時から知っていて、あえて気づかないふりをしてくれていたそうです。)
風が涼しくなり始める頃、いよいよわたしの苦手な勝ち負けを意識し出す空気に変わりはじめました。チュートリアルで三者面談があり、その頃の模試の成績と志望校を決めるタイミングに入ります。クラスの受け持ちの担当者がわたしの成績表を見ながら、気持ちの良いくらいの右肩上がりですね、と褒めてくれましたが、もともとスタートした地点がどん底なので焦りは募るばかりです。東大京大をはじめ偏差値の高い国立大学や医学部志望ならまだしも、ある程度真面目な学生なら現役合格するだろうといった地方の私立大学に何浪もするわけには行きません。それでなくても、母親には一年分の予備校の学費を出してもらっているのに、落ちたらどうなるのか。わたしはその頃から、入試に失敗したら自分はどうなるのか、そればかりを考えては辛い夜を過ごすようになりました。
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大学へ行きたいと決めたのは紛れもない自分でした。自分で強く決めたことなのだから、今回だけは途中で逃げ出すわけには行きません。中学受験は親の勧めで、高校受験は皆んなが行くから、そんな簡単な理由で今まで受験を考えていました。今回は入試に最後まで向き合わないという選択はありません。紛れもなくわたしが決めたことなのです。
年が明け、成人式を迎えました。地域の同級生たちは大学生活を送る人、短大や専門学校を卒業する人、すでに社会に出て働きはじめている人それぞれいました。式という華やかな時間を数少ない仲の良い友人と一緒に過ごしたのち、夕方には振袖を脱いで夜の授業を受けに浪人生に戻ります。
教室にいるクラスメイトには、振袖を着ていたことを隠して、ノートを取りはじめました。おそらく今頃、昼間に時間を過ごした同級生たちはお酒を飲みながら束の間の同窓会の最中だろうと頭をよぎります。しかし、わたしには時間も余裕もありません。
束の間の晴れ姿のために振袖を準備してくれた母親には後でゆっくりお礼をしよう、そう思いながらわたしは戦いの準備を進めていきました。
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センター試験が始まる数日前、クラスメイトから近くの神社にみんなで合格祈願に行こうと誘われました。授業と授業の合間のわずかな休憩時間でクラスメイトと4人で参拝しました。わたしは当時年柄もなくハローキティが好きだったのですが、その神社にはハローキティが刺繍された合格祈願のお守りがあり、そのことを知っていた友人が提案してくれた参拝でした。今思えば、中学の頃は同級生とうまく馴染めず不登校になったり、受験シーズンのピリピリした空気に耐えられずいつもこの時期は途中退場していた自分が、クラスメイトとこんな時間を過ごせるのは奇跡でした。
ピンク色のキティお守りを手にして、わずか20年しか生きていないわたしですが、クラスメイトとその場所にいるのが何だか不思議な気持ちでした。
センター試験の会場は、わたしが中退した高校からエスカレーターで行ける大学がその場所でした。苦い思い出がある敷地はわたしには敵地にも思えるほどでしたが、何とか終えることができました。センター試験の点数を自己予想して、受ける国公立大学を決めます。国公立大学は前期試験で一校、後期試験で一校の二校しか受験出来ません。そして、その他に私立大学を何校か受験します。
前期試験は友人と同じ大学を受験し、後期試験は偏差値の高い大学の夜間を受けました。夜間大学でもその校風で学んで見たかったからです。私立の大学は偏差値から挑戦校、適合校、安全校の3段階に分けて受験しました。
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私立大学の受験はその大学校舎内で試験を受けます。初めて入る大学校内はそれぞれが迷路のようでしたが、大学の教室はどれも格好良くわたしには少し場違いな気分でした。ある私立大学の試験日、クラスメイトの3人と同じ試験会場でした。休憩時間、さっきの試験の解答はどれにしたなどの会話になります。ふと志望学部の話題になり、心理学部ではないけれど、文学部哲学科で臨床心理士の資格を取れるといった話題になりました。そこでわたしはある言葉に唖然としました。友人曰く、臨床心理士の資格は、文学部哲学科教育学専攻のクラスで取れるというのです。わたしが今まさに試験を受けているのは文学部哲学科哲学専攻のクラスです。専攻が違うというのです!わたしはびっくりして、何のために心理学部がない大学を受験したのか!?と困惑しました。自分の大学選びの甘さに情けなくなり、戸惑いながらも残りの科目試験を受けました。
わたしは国公立大学の二校に失敗し、私立大学に望みをかけました。合格発表は、郵送で届きますが試験を受けた大学の通知はなかなか届きません。不安が頭をよぎりましたがもうここまできたら心配したところでどうにもなりません。わたしは日々をこなすことだけに専念しました。予備校の自習室へ行く朝、母親から大学から何か手紙が届いていると声をかけられます。わたしはどうせ不合格通知だろうと、帰ってから見るから置いておいてと母に告げ、家を出ました。その日帰宅した後も通知を見る元気はありませんでした。
こんなに精魂尽くした一年は今までの自分の人生には存在しなかった、自分は一年よく頑張りやり尽くした。もしもう少し時間的な余裕があれば、成績はまだあがるかもしれないが、この張り詰めた気持ちを持続させる気力は湧かないだろう、もう一年浪人しても戦う力は残ってないだろうとなどとぼんやり考えていました。合格通知は届いていませんが、わたしは受験というものに勝利した気持ちがしました。
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2-3日してから母親の言葉を思い出し、玄関の靴箱の上に置かれた手紙を手に取りました。今までの合否通知より、封筒がわずかに厚く感じました。封を開けて上の行からゆっくり目を通していくと、そこには合格の文字が書かれていました。何だかぼんやりとその文字を眺めました。不の文字がついていないことをゆっくりと何度か瞬きしながら確認しました。ああ、そうか合格したのか。心がわずかに動揺しましたが、なぜか大きな感動や喜びが起こることはなく、にわかに信じられない気持ちの方が強くありました。確かに合格し、入学の手続きの方法の用紙も同封されていました。今までは不合格を知らせる通知書一枚が封筒に入っていたので、封筒の厚みの違いは他の書類が同封されているからだったという理由を静かに納得しただけでした。わたしはこの大学に入学するのだろうか。他の大学の合否はどうだろうか。目標にしていた国公立大学入学は失敗した、来年再び受験する選択をすることもまだ決められる。そんな考えが頭の中を駆け巡ります。
それから数日後受験した私立大学の中で1番偏差値が高い難関校からの通知が届きました。結果は不合格。その通知には合格ラインの点数とわたしの総合の点数が記載されていました。差は2点でした。答案用紙の記号問題一問の差でした。そういえば試験終了間際に、現代文で3問ほどミスした自分に気づいていました。あと3分いや2分試験時間があれば解答を書き直せたと悔しがったことを思い出しました。通知を見ながら涙が出ました。この2点の差の間で一体何十人の受験生が悔しい思いをしただろう、わたしもその中の1人に過ぎず、受験というものの厳しさを知った瞬間でした。
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結局、わたしは受験した五つの大学の中で一校しか受かりませんでした。ただ不思議なことに合格したのは偏差値が1番低い大学ではありませんでした。予備校の模試成績や一般的な大学資料だけでは合格校は分かりません。各大学の過去問を解いていて気づいたのですが、大学の入試問題には大学の個性があります。その個性と相性が良いと点数はとりやすく、相性が悪いと点数は低くなります。予備校の講師はその個性を分析して、受かりやすい解答の仕方を教えてくれます。いわば、受験のための勉強ということです。
もしかしたら基礎学力が満遍なく高く、応用力で勝負する偏差値の高い国立大学や才能と学力以外の努力が必要な芸術大学、わたしには縁のない医科大学などはまた勉強方法がちがうかもしれませんが、本当に必要なのは自分の個性と合った校風の学校で、自分の能力をのばし、探究心を育む学び方が本来のあるべき学校の形だと思います。
友人がいってた偏差値なんて関係ないの言葉が今になって沁みてきて、その子は本当の学びを知っていたのだと理解できます。まさに当時から教育者として立派な片鱗を見せてくれていたのです。
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わたしはその後、合格した一校の文学部哲学科哲学専攻で4年間を学びました。入学した頃は不満足だったので、専攻替を考えていましたが、授業が始まると不思議なことに、幼い頃から寝床で思索を巡らせてたことが授業になっていました。心理学に興味が湧いたのは、受験戦争に参加出来なかったり、不登校になったりした時の自分と同じ気持ちの子供のセラピーをしたいからでした。だけど、わたしが心理学という言葉を知る前、疎外感から辛さを知る前の年齢の頃に自然と誰に教わるでもなく頭を駆け巡っていた悩みや問いを考える学問でした。もしかしたら、わたしが集団社会を経験する前の生まれた頃にすでに持っていた個性を伸ばす学問に偶然が重なり、大学で出会ったのかもしれません。
そして、その大学は浪人になることを決意する前に大阪の駅前の本屋で懸命に記憶した名前の大学でした。
大学卒業後も社会に馴染めず苦労を経験しました。40歳を目の前にして、わたしは退職を決め、再び学び始めようとしています。もちろん、母校の大学の大学院が目標です。そしてわたしは死ぬまで学び続けたいです。
星になった父はきっと喜んでくれると思っています。病室で父は母に『あの子は高校中退しても良いが、大学へは進学させないとダメだぞ』と何度も口にしていたそうです。高校の勉強は向いてないが大学の勉強には向いているとわたしの学びの個性を理解してくれていた、わたしはそう信じています。
学びは本来目的であって、手段ではないはずです。哲学者のプラトンはこう信じていました。学びとはすでにもっている考えを思い出す努力である、と。
とても難しい表現ですが、わたしはこう解釈しています。
成長するなかでわたしたちは様々な経験や知識を吸収しながら育つ(人生のインプットの時期)。(プラトンの場合は輪廻転生を含む意味合いですが。。。)そして、色々な課題や障害に出会うが、その時に適切な知識や経験から得た感情を取り出し(インプットしたものをアウトプットする時期)課題や障害を解決させるのではないか。
学びとは、自分の中に蓄えた知識や感情を使って、人生の難題を解決する行為そのものである。だから人はきっと、生きている限り誰もが学んでいるのだと思います。
この話が、社会で生きづらさを感じている人に、すこしでも役に立ってくれれば、わたしは幸せです。
読んでくださり、ありがとうございました。
by vernas_flone
※学生時代や受験時代の描写は、20年以上前の記憶をもとに書いています。現在の学校現場とは違いがあるかもしれません。空想の話?くらいの感覚で読んでくださいますよう、お願いします。
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