大阪地裁R4.6.20判決に対する違和感

去るR4.6.20に、大阪地裁第11民事部(土井文美裁判長、神谷善英裁判官、関尭熙裁判官)により、「同性間の婚姻を認めていない民法第四編第二章及び 戸籍法の諸規定」(本件諸規定)は、憲法24条、13条及び14条1項のいずれにも違反していない、という判決がなされた。

判決全文は、以下のリンクから参照できる。

個人的には、同性婚の禁止については、国賠違法等の請求の棄却判決は普通に書けるんだけど、違憲ですらないという判断はなかなか難しいと思っていて、憲法の試験問題で出たら違憲で書く方がはるかに書きやすいと思っている(価値観の問題は別にして)。
違憲判断の書きやすいさ(合憲判断の書きにくさ)としては、非嫡出子の相続分についての差別的取扱いを認める民法900条4号ただし書(H25.9.4に最高裁大法廷で違憲判断→こちら)や、女性にのみ再婚禁止期間を定める民法733条1項(H27.12.16に最高裁大法廷で違憲判断→こちら)と同じくらいだという認識。だから、最高裁で違憲判断が出ても全然おかしくないと思っている。

大阪地裁判決でその認識が改められたかというと、よくこれで合憲にしたな、という印象を持ったくらいなんだけど、意外と「よく練られた判決」とか、「読みやすい」とかいう法専門家の方々の評価も見られるところなので、違和感を整理してみた。


1 そもそも憲法何条の問題なのか?

大阪地裁判決の最重要ポイントは、以下の点にあると思う。

① 今後の社会状況の変化によっては、同性間の婚姻等の制度の導入について何ら法的措置がとられていないことの立法不作為が、将来的に憲法24条2項に違反するものとして違憲になる可能性はあるとしても、本件諸規定自体が同項で認められている立法裁量の範囲を逸脱しているとはいえない
② 同性愛者と異性愛者との間に存在する、自らが望む相手との人格的結合関係について享受し得る利益の差異の程度についてみると、「現状の差異」が、憲法14条1項の許容する国会の合理的な立法裁量の範囲を超えたものであるとは直ちにはいい難いし、仮に上記差異の程度が小さいとはいえないとしても、その差異は、本件諸規定の下においても緩和することが可能であるから、国会に与えられた裁量権に照らし、そのような区別に直ちに合理的な根拠が認められないことにはならない。よって、本件区別取扱いが憲法14条1項に違反すると認めることはできない。

つまり、大阪地裁判決は、「同性間の婚姻等の制度の導入について何ら法的措置がとられていないこと」については、さすがに憲法上の問題となる余地があり得るとみている。これは、先行する札幌地裁判決において、「本件規定が、異性愛者に対しては婚姻という制度を利用する機会を提供しているにもかかわらず、同性愛者に対しては、婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないとしていること」について、立法府が広範な立法裁量を有することを前提としても、その裁量権の範囲を超えたものであるといわざるを得ないとして、上記の限度で憲法14条1項に違反すると判断したのと、軌を一にするものであると思う。

札幌地裁判決と大阪地裁判決で判断が別れたのは、「同性間の婚姻等の制度の導入について何ら法的措置がとられていないこと」(大阪地裁判決)や、「同性愛者に対しては、婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないとしていること」(札幌地裁判決)が、①現状、違憲といえる状態にあるのかという点と、②違憲になるとして、それは憲法何条の問題になるのか、という点だと思う。
札幌地裁判決は、①現状、違憲といえる状態にあるとして、②それは憲法14条1項違反の問題であるとした。
これに対し、大阪地裁判決は、①将来、違憲となる可能性があり得るとしつつも、②それは憲法24条2項の問題であるとした。

大阪地裁判決に対する拭い難い違和感というのは、果たして憲法24条2項の問題なのか?(そしてそれは、憲法14条1項違反にはなり得ないのか?)という点である。

大前提として、大阪地裁判決は、同性間で婚姻をするについての自由は憲法24条1項や憲法13条から導かれるとはいえないとしている。これ自体は、残念ながら普通の裁判官の思考だといえるかもしれない(札幌地裁判決でも同じ結論)。
他方、大阪地裁判決は、同性間の婚姻等の制度の導入について何ら法的措置がとられていないこと(立法不作為)につき、将来的に憲法24条2項に違反するものとして違憲になる可能性があるという。

まず、「そんな学説、あったっけ?」という疑問が生ずる。(まあ、学説なんてほとんど知らんけど)

そもそも、憲法24条2項違反説を主張して、果たして裁判所は認めてくれるのだろうか??それこそ、大阪地裁民事第11部の畢竟独自の見解と言われるのではないだろうか。(とはいえ、弁護団としては、憲法24条2項違反の法律構成を新たに加えることにはなるのだろうが。)

ということで、憲法24条2項の問題に流し、その反面、憲法14条1項違反の主張をいとも簡単に排斥した(本籍地は憲法24条2項違反の問題であるとした)のは、違和感を拭えない。

なお、なぜこのような法律構成になったのかというと、中途半端に国(訟務検事)の主張に感化されたからであろうと思っている。

国は、札幌地裁判決を踏まえ、第5準備書面において、「婚姻及び家族に関する事項の立法行為又は立法不作為の憲法14条1項適合性については、憲法24条2項の解釈と整合的に判断する必要がある」という主張を打ち出した(7頁以下)。
そして、そこで挙げられている平成27年夫婦別姓訴訟最高裁判決(→こちら)は、憲法13条違反の主張を排斥し、憲法14条1項違反の主張を排斥した上で、憲法24条適合性について、詳細に検討している。
また、再婚禁止期間違憲判決は、憲法14条1項違反と憲法24条2項違反を同時に認めている。

この国の主張は、あまりにも一方的(そもそも、憲法24条1項により認められるものではないとしつつ、憲法24条2項を問題とすべきであるという理屈がよく分からない。)な主張だと思うのだけれども、この主張(国はぎりぎりながら整合的な見解を主張している。)を悪い方に昇華させたのが、大阪地裁判決だと思う。
つまり、国の主張は、おそらく、憲法24条1項により保障されるものではないが、憲法24条1項により保障される権利については、憲法24条2項が参照されるのに、憲法24条1項により保障されないものについて、憲法24条2項が全く参照されない(フリーハンドになる)というのは、「おかしいじゃないか!」という主張を理解できる。それはそれで、一応理由があるようにも思える。
けど、国は、憲法24条2項の問題で、憲法14条1項の問題ではない、なんて言ってない(たぶん)。そこまでは言えなかった(訟務検事の矜恃)のに、大阪地裁判決はそう考えてしまったんじゃないだろうか。

いずれにせよ、大阪地裁判決は、憲法24条2項と憲法14条1項の関係(整合性)について、全く検討していないようにみえるし、憲法24条1項により保障されていなくても、憲法24条2項の問題にはなり得る(反面、憲法14条1項は問題になり得ない)とする根拠について、熟慮検討したようには見えない。

この点が、大阪地裁判決を論ずる上で、まずは大きな一つのポイントになるのではないかと思われる。

2 憲法14条1項違反の問題にはなり得ないのか?

次の大きな問題となるのは、憲法14条1項違反性を、実質的にわずか2頁で排斥した大阪地裁判決の理由。

(1) 規範

まず、大阪地裁判決は、次のとおり、札幌地裁判決と同じ規範を設定する。

憲法14条1項は、法の下の平等を定めており、この規定は、事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づくものでない限り、法的な差別的取扱いを禁止する趣旨のものであると解すべきである。

また、大阪地裁判決は、さらに次のとおり判示する。

同法24条2項は、婚姻及び家族に関する事項について、具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに、その立法に当たっては、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきとの要請、指針を示すことによって裁量の限界を画したものであるから、婚姻制度に関わる本件諸規定が、国会に与えられた上記のような裁量権を考慮しても、そのような区別をすることに合理的な根拠が認められない場合に、当該区別は、憲法14条1項に違反するものと解するのが相当であるというべきである。

(2) 婚姻制度の規定の有無について

その上で、大阪地裁判決が憲法14条1項違反を否定した判示部分。

本件諸規定は、憲法24条2項が、異性間の婚姻についてのみ明文で婚姻制度を立法化するよう要請していることに応じ、個人の尊厳や両性の本質的平等に配慮した異性間の婚姻制度を構築したものと認められ、その趣旨目的は、憲法の予定する秩序に沿うもので、合理性を有していることは既に述べたとおりである。
そして、本件諸規定が同性間の婚姻制度については何ら定めていないために本件区別取扱い〔※本件諸規定により、異性愛者は婚姻をすることができるのに対して同性愛者はこれをすることができず、婚姻の効果を享受できないという別異の取扱い〕が生じているものの、このことも、同条1項は、異性間の婚姻については明文で婚姻をするについての自由を定めている一方、同性間の婚姻については、これを禁止するものではないとはいえ、何らの定めもしていない以上、異性間の婚姻と同程度に保障しているとまではいえないことからすると、上記立法目的との関連において合理性を欠くとはいえない。
したがって、本件諸規定に同性間の婚姻制度が規定されていないこと自体が立法裁量の範囲を超えるものとして憲法14条1項に違反するとはいえない。

これは、「本件諸規定」において、異性間の婚姻制度についてのみ規定し、同性間の婚姻制度については規定していないことについて、かかる区別をすることに合理的な根拠が認められないとはいえないとしたものと考えられる。
大阪地裁判決は、その理由について、異性間の婚姻については、憲法24条1項がその自由を定めている一方、同性間の婚姻については、「異性間の婚姻と同程度に保障しているとまではいえない」ことを挙げる。すなわち、憲法自体が別異の取扱いを許容しているとするのだが、これはそこまで自明のものなのだろうか。また、判決で説得的に論じられているのだろうか。
まずこの点について、疑問なしとしない。

また、大阪地裁判決は、一方については婚姻制度を規定し、他方についてはこれを規定していないという点に限定して、上記判示をしており、婚姻制度に結びつけられた法律効果を(ここでは)一切捨象している。
それが果たして許容されるのかについて、やはり疑問なしとしない。

(3) 婚姻によって生じる法的効果について

次に、現実の婚姻制度に結びつけられた法律効果を踏まえて大阪地裁判決が憲法14条1項違反を否定した判示部分。

まず、前提部分。

確かに、現時点の我が国においては、同性愛者には、同性間の婚姻制度どころか、これに類似した法制度さえ存しないのが現実であり、その結果、同性愛者は、前記のとおり、婚姻によって異性愛者が享受している種々の法的保護、特に公認に係る利益のような重要な人格的利益を享受することができない状況にある。したがって、このような同性愛者と異性愛者との間に存在する、自らが望む相手との人格的結合関係について享受し得る利益の差異の程度が、憲法14条1項の許容する合理的な立法裁量の範囲を超えるものではないかについてはなお慎重に検討すべきということができる。

まず、大阪地裁判決は、婚姻制度を一方にのみ規定し、他方については規定しないこと自体は、憲法14条1項に違反しないとした。
その上で、大阪地裁判決は、婚姻制度の適用の可否という形ではなく、「自らが望む相手との人格的結合関係について享受し得る利益」の差異(の程度)について、問題とする。

なお、札幌地裁判決は、「異性愛者のカップルは、婚姻することにより婚姻によって生じる法的効果を享受するか、婚姻せずそのような法的効果を受けないかを選択することができるが、同性愛者のカップルは、婚姻を欲したとしても婚姻することができず、婚姻によって生じる法的効果を享受することはできない」とした上で、「異性愛者と同性愛者との間には、上記の点で区別取扱いがあるということができる」として、これを「本件区別取扱い」と定義し、「本件区別取扱いが合理的根拠に基づくものであり、立法府の上記裁量権の範囲内のものであるか」について、検討した上で、これを否定した(憲法14条1項違反を認めた)。

一方、大阪地裁判決は、「本件諸規定は、異性間の婚姻のみを定め、同性間の婚姻は定めていないものである。」としつつ、「そこで、原告らは、本件諸規定により、異性愛者は婚姻をすることができるのに対して同性愛者はこれをすることができず、婚姻の効果を享受できないという別異の取扱い(以下「本件区別取扱い」という。)が生じているとして、このことが憲法14条1項に違反する旨主張する。」として、札幌地裁判決の判断枠組みを、なぜか当事者の主張の限度にとどめている。(他方で、「本件区別取扱いが憲法14条1項に違反すると認めることはできない。」と結論付けているが、これは、当事者の主張を排斥しているだけともいえる。)

いずれにせよ、札幌地裁判決は、「本件区別取扱い」が合理的根拠に基づくものである(したがって、立法府の裁量権の範囲内のものである)か否かを検討しているのに対し、大阪地裁判決は、「自らが望む相手との人格的結合関係について享受し得る利益の差異の程度」が、憲法14条1項の許容する合理的な立法裁量の範囲を超えるものではないかを問題としており、この時点で極めて不穏な気配を感じる。

繰り返しになるが、大阪地裁判決は、①一方にのみ婚姻制度を用意し、他方にはこれを用意しないこと自体は、憲法14条1項に違反しないが、②その差異の程度が、憲法14条1項の許容する合理的な立法裁量の範囲を超えるものではないかは、別途問題となり得るという見解をとる。

そして、憲法14条1項違反とはならないと判断した理由部分。

①前記2⑶イのとおり、異性間の婚姻は、男女が子を産み育てる関係を社会が保護するという合理的な目的により歴史的、伝統的に完全に社会に定着した制度であるのに対し、同性間の人的結合関係にどのような保護を与えるかについては前記のとおりなお議論の過程にあること、②同性愛者であっても望む相手と親密な関係を築く自由は何ら制約されておらず、それ以外の不利益も、民法上の他の制度(契約、遺言等)を用いることによって相当程度解消ないし軽減されていること、③法制度としては存在しないものの、多くの地方公共団体において登録パートナーシップ制度を創設する動きが広がっており、国民の理解も進んでいるなど上記の差異は一定の範囲では緩和されつつあるといえること等(前記2⑶イ(イ))からすると、現状の差異が、憲法14条1項の許容する国会の合理的な立法裁量の範囲を超えたものであるとは直ちにはいい難い

ここまでの流れは、札幌地裁判決と大きく変わりはないので、結局はここが問題になるわけだが、私が気になるのは、そもそも上記理由(①~③)は、果たして憲法14条1項違反を否定する理由になるのか、ということ。すなわち、当否の問題じゃなくて、そもそも主張自体失当じゃないのか、という。。。

そもそも、ここで問題となっているのは、同性愛者のカップルは、「婚姻を欲したとしても婚姻することができず、婚姻によって生じる法的効果を享受することはできない」という別異の取扱い(札幌地裁判決、原告の主張)であり、「自らが望む相手との人格的結合関係について享受し得る利益の差異の程度」であるわけだが、その差異の大小について、果たして上記①~③はいかなる回答をしているのだろうか。

この点について直接に述べているのは②だが、こんなものは札幌地裁判決でも原告も当然の前提にしているところで、「なお解消ないし軽減されていない」不利益が何で、その程度がどうかが問題となるはずなのに、「解消ないし軽減されている」不利益があることによって、差別が正当化されるというのは、さすがに首肯し難い。非嫡出子の相続分差別について、「遺言のない場合に適用される補充的な規定にすぎない」と強弁していた旧き時代を想起させる。

そして、③に至っては、「差異」の解消に果たしてどの程度寄与しているのか(そもそも原告の居住している自治体はどうなのか)について、全く考慮していないようにみえる。そもそも原告は、そのような事実上の「差異」(差別意識)について、どれほどの重きを置いていたというのだろうか。

なお、①については、上記「差異」の残置が直ちに違憲となるかについての考慮要素ではあり得るように思われるが、「差異の程度」とは全く無関係である。

すなわち、大阪地裁判決は、「現状の差異が、憲法14条1項の許容する国会の合理的な立法裁量の範囲を超えたものであるとは直ちにはいい難い。」と結論付けているのだが、「現状の差異」が何かについては全く確認しておらず、「差異が相当程度解消ないし軽減されているし、緩和されつつある」ことをもって、「憲法14条1項の許容する国会の合理的な立法裁量の範囲を超えたものであるとは直ちにはいい難い」としているのだが、そのような判断は、果たしてあり得るのだろうか。
現状、こんな差異があり、これは憲法14条1項の許容する合理的根拠に基づくものを超えるもので、違憲だ!」という主張に対し、「差異は相当程度解消ないし軽減されており、一定の範囲で緩和されつつあるから、合理的根拠に基づくものを超えるとはいえず、違憲ではない」という判断は、果たして理由を示したものといえるのだろうか。

なお、大阪地裁判決は、「今後の社会状況の変化によっては、同性間の婚姻等の制度の導入について何ら法的措置がとられていないことの立法不作為 が、将来的に憲法24条2項に違反するものとして違憲になる可能性はあるとしても」として、将来的に憲法24条2項違反となる余地を認めているのだが、同性間の婚姻等の制度を導入するまでもなく、「現状の差異」は憲法14条1項違反には反しないわけで、今後の社会状況の変化によって、なぜ憲法24条2項違反となる余地が出てくるのか、全く理解できない。(いかにも場当たり的な判断/判示という印象を拭えない。)

そして、更に問題となるのが、次の判示。

また、仮に上記の差異の程度が小さいとはいえないとしても、その差異は、既に述べたように、本件諸規定の下においても、婚姻類似の制度やその他の個別的な立法上の手当てをすることによって更に緩和することも可能であるから、国会に与えられた裁量権に照らし、そのような区別に直ちに合理的な根拠が認められないことにはならない。

個人的には、ここが一番の問題点だと思っている。

結局のところ、大阪地裁判決は、婚姻と結びつけられた各種制度(恩恵)があり、それを一切受けられないという不利益があり得るとして、それは、個々の制度(恩恵)を増やせばよい話であって、「そのような区別」(その意味は判然としないが。)に直ちに合理的な根拠が認められないことにはならないとする。
つまり、大阪地裁判決は、「本件諸規定」によって同性婚が認められないことそれ自体による不利益ではなく、個々の規定によって生じる不利益(あるいは、その規定の改廃によって緩和し得る不利益)をもって、同性愛者に婚姻を認めないことによる不利益とはいえないとしているが、ナンジャソリャという感じ。

大阪地裁判決も、「同性愛者と異性愛者との間に存在する、自らが望む相手との人格的結合関係について享受し得る利益の差異の程度が、憲法14条1項の許容する合理的な立法裁量の範囲を超えるものではないかについてはなお慎重に検討すべきということができる」というのを出発点にしていたはずなのに、いつの間にか、「仮に上記の差異の程度が小さいとはいえないとしても、その差異は、既に述べたように、本件諸規定の下においても、婚姻類似の制度やその他の個別的な立法上の手当てをすることによって更に緩和することも可能である」として、立法裁量の範囲を超えるものではないとしているのである。要は、慎重に検討すべきと言っていたのに、舌の根も乾かないうちに、「でも、それは本件諸規定と両立し得る他の制度により緩和し得る差異でしかないから、本件諸規定の違憲性には繋がらないよね。」と言っているのである。全然慎重に検討していなくないですか??

3 結論

大阪地裁判決の結論に直結する問題点(違和感)は、
① 婚姻に結びつけられた諸制度を、同性愛者(同性愛者のカップル)は一切利用できないが、そのことをもって憲法14条1項違反となり得る余地があるのか(あくまで個々の制度の問題なのか)
② 同性愛者にも利用できる制度、利用できない制度に代替し得る制度があることをもって、利用できない制度があることの不利益を正当化し得るのか
という点。婚姻の目的論とかは、二の次かなという印象。上記差異(不利益)を、婚姻の目的で果たして正当化することができるかという問題はあるが、それ以前の問題(違和感)が大きすぎるので。

4 蛇足

なお、今回の判決の印象を言うと、国(訟務検事)の主張を大幅に取り入れて、訟務検事よりもある意味訟務検事らしく、最高裁判例の判示を判決に取りまとめたが、あまりにも頭を使っていないんじゃないかという印象。

例えば、不利益が相当程度解消ないし軽減されているというのは、証拠に基づいて認定されているわけではない。
これに類する表現として、国は、第5準備書面で、「同性間の人的結合関係においても、婚姻による財産上の法的効果(財産分与、相続等)及び身分上の法的効果(貞操、扶養等)については、民法上のほかの制度(契約、遺言等)を用いることによって、婚姻(法律婚)と同様の効果を生じさせることができるから、同性婚が認められないことによる事実上の不利益は、相当程度、解消ないし軽減する余地がある。」「婚姻により生じる法的効果を受ける権利利益は、憲法上も具体的な法制度上も同性間の人的結合関係に対して保障されているものではない上、民法上のほかの制度(契約、遺言等)を用いることによって、同性婚が認められないことによる事実上の不利益が相当程度解消ないし軽減される余地もある。」(としている。
大阪地裁判決では、「事実上の不利益が相当程度解消ないし軽減される余地がある」という表現を一歩進め、「同性愛者であっても望む相手と親密な関係を築く自由は何ら制約されておらず、それ以外の不利益も、民法上の他の制度(契約、遺言等)を用いることによって相当程度解消ないし軽減されている」と断定的に「認定」しているのである。

また、夫婦別姓訴訟最高裁判決は、「夫婦同氏制は、婚姻前の氏を通称として使用することまで許さないというものではなく、近時、婚姻前の氏を通称として使用することが社会的に広まっているところ、上記の不利益は、このような氏の通称使用が広まることにより一定程度は緩和され得るものである。」と判示し、これを憲法24条違反を否定する論拠の一つとしている。
しかし、上記最高裁判決が「不利益」としているのは、「夫婦同氏制の下においては、婚姻に伴い、夫婦となろうとする者の一方は必ず氏を改めることになるところ、婚姻によって氏を改める者にとって、そのことによりいわゆるアイデンティティの喪失感を抱いたり、婚姻前の氏を使用する中で形成してきた個人の社会的な信用、評価、名誉感情等を維持することが困難になったりするなどの不利益を受ける場合があることは否定できない。そして、氏の選択に関し、夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占めている現状からすれば、妻となる女性が上記の不利益を受ける場合が多い状況が生じているものと推認できる。さらには、夫婦となろうとする者のいずれかがこれらの不利益を受けることを避けるために、あえて婚姻をしないという選択をする者が存在することもうかがわれる。」としているとおり、①アイデンティティの喪失感を抱いたり、②婚姻前の氏を使用する中で形成してきた個人の社会的な信用、評価、名誉感情等を維持することが困難になったりするなどの不利益である。これらの不利益が、「氏の通称使用が広まることにより一定程度は緩和され得る」ものであること(最高裁でも、「解消」「軽減」されるとは言っていないし、「され得る」としか言っていない。)は否定できないだろう。
翻って、同性婚が認められないことによる「不利益」は、果たして上記不利益と同一に論じられるものなのだろうか。最高裁の判示と比較して、同性婚が認められないことによる不利益(の緩和)は、どの程度のことがいえるのだろうか、という点について、全く頭を使って考えた形跡が窺われない。

大阪地裁判決の裁判長は、最高裁調査官も務められた立派な経歴をお持ちのようだが、以上述べたように、少なくとも「今回の判決」は、なるほどと得心し得るものでは全くないと思うし、肩書に釣られて高裁の裁判官において判決の問題点を看過ないし無視する程度の内容でもないと思う。

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