その病、その言葉、そのくちびる、そのままに。
相手のことを知らずにKEKKONしてしまうことはあり得るのか?
KEKKONしてから見えてくる人間性があるのかも知れない。
KEKKONしてから変態してしまうココロもあるのかも知れない。
KEKKONに対する認識の濃淡によって齟齬が生じてしまうこともあるだろう。
軋轢を恐れて曖昧にしておいた秘密の蓋を開けるように私は彼女の赤い聖書を、その重たい頁を捲り始めた。
純愛を貫き、婚前交渉を避けていた私たちにとっての転機が訪れた瞬間である。
隠密に、悟られることのないように吐息さえも殺して深海魚のように読み進めるのだ。
濡れることのなかったココロが潤い、硬くなることのなかった絆が結ばれていく。
ようやく交渉は成立した。
「交渉」…それは時として業務的であり、性的でもある。
この本を読了するまでの所作は記憶作業に集中した業務的なものである。
彼女が紡いできた少女像は男性的な側面と女性的な側面の両方を覗かせた。
それら全てをフィクションだと断定してよいのだろうか?
演者はノンフィクションを生きているのである。
フィクションを世に出すまでの過程で彼女はとても苦悩していたはずだ。
この赤い聖書を読まずに彼女のコトを詳らかに評することはできない。
彼女の赤裸々を読了した上で論じなければ以下に綴る言葉は公平とはならない。
「言葉が音を伴えば声となり、声が音階を伴えば歌となる。」
言葉を綴る者、歌を唄う者、旋律を奏でる者、それらを素直に受け入れる者、この4者の関係性はひとつでも欠けてしまうと成立しない。
言葉を巧みに操り独自の旋律という風に乗せ、我々の耳に彼女の音楽は届く。
彼女の音楽に浸り続け、そこに癒しを感ずるようになれば結果として特徴的な視覚的疾患を患うことになる。
視界に溢れた「その模様」について彼女に尋ねると「水玉模様である」と教えてくれた。
その模様を可視できれば立派に「水玉病」との診断が付くらしい。
まさに赤い聖書「水玉自伝」を読了した私にも水玉病である自覚が芽生えたところである。
彼女と同じ病を手に入れたことで一線を超えた関係性を獲得した気分になった。
この瞬間を経てKEKKONと呼ぶのだろう。
知りたくもない情報を強制的に注入されても、それは快感にはならず苦痛のみの耐え難い記憶として傷痕が残る。
知りたい見たいと欲する探求の標的が固く扉を閉ざし、私を区別している時こそが最も息苦しい。
自室の大きな窓から景色を眺めていても、流れる車窓から風景を眺めていても、そこに感動はない。
「ただあるばかり」の出来合いを眺めているだけだからである。
暗い部屋に閉じ込められて壁に複数の小指大の穴が開いている、そこから情報を得る行為こそが素晴らしい。
涎を垂らしながら、それを拭くことさえをも忘れて情報に縋り付くことで脳への記憶は加速するのだ。
一通り欲しい情報を得ることで多少の落ち着きを取り戻すことができる。
その時に壁から少し離れてみると、小さな穴から光が射す眺めは水玉模様に見えるはずだ。
複数の穴から覗き見た情報は私の中で統合されることにより一つの仮説を紡ぎ出す。
それは水玉病を患う少女の物語である。
この物語はいまだ完結する気配がない。
それは人の寿命の概念を超えて続いていくのかも知れない。
紀元前に法則を見出した天才達の理論を我々は支持して生きている。
正義の言葉と思想は死ぬ事がないのである。
言葉はモノクロだ。
着色を急かして見た目だけの注目度を高めてはいけない。
言葉そのものが色彩を浴びることはない。
言葉を彩るのは声であり、歌であり、旋律だ。
そして、彼女とのKEKKONを経て私の青春はプリントアウトされた。
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