見出し画像

〈樺太地名研究8〉 幻の公称地名「木烏」

 樺太の地名のうち、いわゆる公称地名(内務省、内閣、樺太庁告示のいずれかによって正式に定められた地名)は、明治41年から昭和8年の間に計9回に分けて定められている。そのうち、5回目に当たる明治45年5月18日樺太庁告示第45号ではこれまでの公称地名の選定から漏れてしまった地名を追加するように、南樺太各地の11個の地名が公称地名として告示されているが、それらの公称地名の中に「木烏(キカラス)」という地名があるのである。この地名は様々の樺太地図や西村いわお『南樺太 概要 地名解 史実』にも載っておらず、ネット上でも一切ヒットしない謎の地名である。

樺太庁長官官房調査課編『樺太廳法規』下巻,樺太印刷,1934 中 第十八類 p.10より画像一部分を切り抜いた上で転載
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1446035 (参照 2024-03-19)

 上に掲げたのは『樺太廳法規』下巻中の樺太庁告示第45号であるが、西海岸にあり、旧名キカラスに木烏の漢字が当てられたことしか分からない。しかし、新資料の発掘により遂に木烏についての正確な位置が明らかとなった。


 大正時代に発行された水路部編『日本水路誌 第九巻』中に木烏についての記述があったのである。以下p.70より引用する。

「○海󠄀濱ニ沿󠄀ヒ部落アリ人家六十六戶 大正五年六月末 唐佛川ハ其ノ北端ニアリ 水淺クシテ小舟ヲ行リ難󠄀シ○唐佛川ノ北岸木烏ニ「アイヌ」人ノ部落アリ」

 唐仏は後に字が改められて登富津となるが、「海󠄀濱ニ沿󠄀ヒ部落アリ」の「部落」とは登富津集落のことであり、この集落は登富津川の南に位置していた。そして木烏はアイヌ人の集落であり、登富津川を挟んで登富津の北に位置していたのである。

 場所が特定出来たので最後に江戸期から日露戦争直後に製作された地図中にキカラスに当たる地名が見えないか探してみる。まず、日露戦争直後に製作された陸地測量部の仮製樺太南部五万分一「野田寒」中のトーブツ川の北に「キリカラウス」が見える(やや時代が下って修正が加えられトーブツ川にしっかりと唐佛川の漢字が当てられているが、スタンフォード大学図書館所蔵の下記リンク先の地図でも「キリカラウス」が確認出来るhttps://searchworks.stanford.edu/view/12121660 )。
 江戸期の地図だと樺太闔境之図でトウフツナイの北にキイカルシが、北蝦夷島地図でトーブツの北にクーカルシが確認出来る。浅学菲才の私の知識ではこれがアイヌ語においていかなる意味を持つのか分からないので、解釈についてはアイヌ語研究者諸氏にお任せしたい。
 

参考文献

・水路部編『日本水路誌 第九巻』,1918
・樺太庁長官官房調査課編『樺太廳法規』下巻,樺太印刷,1934


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?